第一章 (6) 悪い子故に


 その数日後、件の飛行機事故について、大司教による哀悼の声明が発表された。


***


 決しておかしなことをした訳ではないのだが、その声明を発表した際、周囲が微かに動揺したのが印象的だった。


 無理もないか、とジョンは思う。二〇〇九年一月二七日を境に、姫良三善の様子が大きく変化していたためだ。その立ち振る舞い、表情、言葉の選び方――こういう場合はいつもジョンが原稿を書いていたのだが、今回は三善たっての希望で自ら原稿を作成していた――、そのいずれにおいても一六歳の少年のものとはとても思えない代物だった。本人に自覚はないようだが、あれは別人だと言っても差し支えないレベルの変貌ぶりである。周りが気づかないはずがなかった。


 中身は二十二歳だと言っていたが、それを踏まえても、今の三善は「悟りすぎている」。前々から察しのいいところはあったけれど、これはさすがに極端すぎた。


 ジョンが目線を下に向けると、ジョンの斜め前を三善が無言のまま歩いている。予定していた公務が終わり、自室へ戻るところだった。今も彼は表情を崩すことなくじっと口を閉ざし、なにかを考えているようだった。


「なあ」

 声をかけると、三善は気のない様子でのろのろと首を持ち上げる。


「何です?」

「ああ、いや。今日もお疲れさん」

「はい。お疲れさまでした」

 定型文を返した三善はすぐにそっぽを向く。「部屋に戻ったら少し休みます」


 これは暗に放っておいてくれと言っているらしい。おう……と言葉を濁した刹那、三善は突然ぴたりと足を止めた。


「あ、そうだ。ブラザー・ジョン、会いたい人がいるのですが、その方の予定を確認していただいてもいいですか」


***


 さて、三善がずっと口を閉ざしていたのにはそれなりの訳があった。


 ――煙草、吸いたい。


 現時点では煙草を吸っていない――というか、法的にアウトだ――はずなので、これはたぶん精神に染みついた習慣的なものだ。とはいえ、こんなくだらない悩みなど誰にも言えるはずもなく、とりあえず自室で黙々とガムを奥歯で噛む日々を過ごしている。むしろガムを噛みすぎて最近腹の調子がよくない。


 大体にして考え事をするときはたいていあれを口にしていた訳なのだから、今さら強制禁煙コースに連行されるというのはものすごく理不尽である。


 自室に戻り一人きりになった三善はぶつぶつ文句を言いつつ、机の上に置いていたボトル入りの粒ガムを数個咥内に放り込んだ。


 気に入らないことはまだある。


 今回の「姫良三善」は一体なんだ。自分がちょっと仕事しただけで周りがざわつくだなんて、お前は一体どれだけ働かなかったんだ。そんなことだから悪い大人に利用されるのだ。この世を生きるための立ち回り方がまるでなっていない。はっきり言って、下手だ。下手すぎて話にならない。


 そんなことを考えるくらいには、今の三善の機嫌はものすごく悪かった。


 その身にまとっていた聖職衣を脱ぐと、子供の身体には大きすぎる部屋着に袖を通す。両袖が邪魔だったので適当にまくっていると、その時、部屋の戸をノックする音が聞こえた。三善はクローゼットの戸を閉めつつ、開いている旨を告げる。


「まさか教皇直々にお呼びとは。どうしたの」


 声の正体はジェイである。相変わらず年齢不詳――というよりも、見た目が前回からなにひとつ変わらない。いつもの白衣姿、そして短い赤毛。外見の若々しさだけは満点である。

 そんな彼女はけろっとした様子でそう尋ねると、同時に左手で内側から戸に鍵を落とした。


 三善はああ、とだるそうな様子で答えると、ためらいなく“大罪”の能力を行使する。子供の姿から大人の姿へ。邪魔だと思っていた袖口はちょうどいい長さになった。


 ジェイはその様子を驚くことなく見つめ、「ははっ」と乾いた笑みをこぼす。


「まあ、そうなるよね。前回ぶり」

「ああ」

 三善は冷たい声色で返すと、「煙草持ってない?」とだけ聞いた。


「持っていたとしても、今の君にはあげないよ」


 使えない、と舌打ちしつつ、三善はベッドに腰掛け、隣をぽふぽふと左手で叩く。それが座れとの指示だと分かると、ジェイは三善の隣に腰掛けた。


「さて、猊下。今回はどんな感じだい?」


 そう尋ねられたので、三善は思わずその場で頭を抱えてしまった。


「……なにかとハードモードすぎる」

「そう言うと思った」

 ジェイは表情崩さず答える。「さすがのボクもね、『テオドールがいない状態』をつくるとこうなるだなんて考えてもみなかった。正直今までの試行の中で一番きついと思う」


 前回と今回との間で異なる点は多々あるが、はっきり言って最悪の変化が起こっている。三善の機嫌が悪い要因のひとつはだった。


 事の起こりはジョンに事情を打ち明けたあと。ちょうど日本に土岐野雨がいることを思い出した三善は、手っ取り早く土岐野に橘の所在について聞くことにした。幸いこの時間軸でも三善と土岐野は友人関係にあったようで、警戒されることなく土岐野と会うことができた。


 橘の所在さえ確認できればそれでよかった。あとは適当な言い訳を用意して保護すればいい。

 しかし、そんな三善の淡い期待は土岐野の一言によりあっさりと打ち砕かれた。彼女は三善の問いにきょとんとしたかと思えば、


 ――私に弟なんていないよ? 一人っ子だもの。


 と返してきたのである。


「この時間軸の中で『土岐野橘』は『土岐野雨』の弟ではない、なんて言われたら、確かにへこむよね」

 まるでその現場にいたかのような口ぶりでジェイが言った。「こちらからしたら『土岐野橘』が存在する確率のほうが圧倒的に少ない訳だから、あーまたこのパターンか、って感じだけど」


 そうですか、と三善は唸る。


「でも、存在しない訳ではないだろ」

「うん。いるよ」

 ジェイは続ける。「ちゃんといる。然るべき時がきたら、確実にキミの前に現れる。そう思うよ」

「でも、その時まで待っていたら」

「今回も試行失敗、だろうね」


 だよなぁ、と三善はぼやき、そのまま仰向けに寝転んだ。本当に上手くいかない。もしも前回の状態がそのまま今回に持ち越せていたら、ここまで苦労しなくても済んだはずなのに。一瞬そう思った三善だったが、すぐに否と胸の内で思う。そうすると、せっかく救ったケファの命が無駄になる。あちらが立てばこちらが立たず。そんな状況が三善の苛立ちをさらに助長させる。


「なあ、なにかヒントはないの」

「それが分かっていたらボクらだって苦労はしないよ。万能でないからこんなにも試行回数が増えているんだ。せめて『白髪の聖女』が――」


 ジェイはそこまで言ったところで、ふと口の動きを止める。おや、と三善は思った。ジェイが話している途中で考え事を始めるということはあまりない。そういうことがあるときは、たいていよからぬことを考えているに決まっている。少し嫌な予感がした三善は、恐る恐るジェイに問いかけた。


「どうした」

「……ああ、いや。たぶん気のせいだと思うのだけれど。でも、うーん……まさかなぁ」


 ジェイはしばらくうんうん唸り、最終的にこう答えた。


「ミヨシくん、もし調べられそうなら、姫良真昼まひるって人が存在するか確認してみて」

「うん……?」


 三善は上体を起こし、「誰?」と尋ねる。苗字からして己の親類のような気がするが、前回そんな話は聞いたことがなかった。


「ま、察しのいいキミのことだから、すぐに予想がつくでしょう」

 そこまで言うと、「さて」とジェイは立ち上がる。「あまり長居すると体裁がよくない。ボクは戻るよ。しばらく本部にいるつもりだから、なにかあったら呼ぶといい」

「ああ。ありがとう」


 少しでも情報が手に入ってよかった。それに、少なくともひとりの”七つの大罪”の記憶はきちんと持ち越せていることの確認もとれたことになる。三善はそのことに対し内心安堵しつつ、部屋を出ようとするジェイの背中を見送ろうとした。


「あ、忘れてた」


 ジェイは白衣のポケットから何かを取り出し、それを三善に投げる。一瞬驚いたものの、三善は反射でそれを受け取った。


「キミはだから、上手に使えるよね」


 うん? と三善が首を傾げているうちに、ジェイは「じゃあね」とさっさと退室する。


 ひとりきりになった部屋でジェイが投げてきたものをまじまじと見つめた三善は、


「……どちらにしろ法に引っかかるのであれば、煙草のほうが欲しかったなぁ」


 大人の姿となった三善向けに作られた身分証を握りしめ、がっくりと肩を落とした。

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