Respice,adspice,prospice.
はるか遠くから、鐘の音が聞こえてくる。
どこかで聞いたことがある音だな、と三善は未だぼんやりしている頭の片隅で考えた。一体どこで聞いたのだろう。教会の鐘の音とは違う、そう、もっと、けたたましい――
***
目覚ましのなる音に反応し、三善はのろのろと瞼をこじ開けた。
生成りの天井がこちらを見下ろしている。カーテンの隙間からこぼれる日の光が眩しくて、三善は再び瞼を閉じそうになった。もう一度眠ることも考えたが、自分の意思とは裏腹に脳は覚醒し始めていた。
三善は布団の中から腕を伸ばし、サイドボードに乗せられている目覚まし時計を手繰り寄せる。片手でアラームを止めつつも、三善は文字盤に目を落とした。
二〇〇九年一月二七日、午前八時。
「っ!」
三善はがばりと身体を起こし、自分の両手を胸の前で広げてみた。いつも見ている自分の手のひらと比べて幾分小さく見えた。続いてサイドボードから鏡を取り出すと、自分の姿を映してみる。
一六歳の時の自分の姿だった。
幼さの残る顔立ちに、少し伸びたくせ毛。当時寝巻にしていた丈の長いリネンのシャツに袖を通した鏡の中の彼は、呆然とした表情でこちらを見つめている。
「……成功した、のか……?」
ぽつりと呟き、三善は周囲を見回した。
無駄なものがなにひとつなく、強いて言えば机の上に聖書と小さな熊のぬいぐるみがある程度。朝日に照らされて、室内の埃がきらきらと揺らめいて見えた。
頭が、なんだか重い。
三善はゆっくりと、自分の記憶を辿る。
「――おれは、姫良三善。一二月二四日生まれ、二十二歳。教皇名、シリキウス。二〇一五年一月一三日から来た……」
脳裏に焼き付いたまま離れない、塩に覆われた光景。目の前で仲間は死に絶え、唯一の弟子は対価として身体を失った。
――約束、ですよ。
彼の言葉が何度も反響して、三善の思考をじりじりと焦がしてゆく。三善は思わず口元を手で覆い、嗚咽しそうになるのを必死で堪えた。
「……忘れない。絶対に、迎えに、行く」
そしてもうひとつ、大切な人から預かった、あの言葉がある。
「『あなたなしには、生きられない』」
忘れていない。大丈夫。
三善はそっと己の左耳に触れ、その耳にイヤー・カフが存在しないこともしっかり確認した。この時点では持っていないはずだから、それは当然だった。
そのとき、布団の上で何か小さくて固いものに触れた。三善ははっとして、その物体を手繰り寄せる。
そしてそれを目の当たりにした刹那、三善の表情が大きく歪む。
「なん、で……」
それは、『漁夫の指輪』だった。
これはこんなところにあってよいものではない。というよりも、どうしてこんなところにあるのだ。一瞬「未来から持ってきたのか?」と変なことを考えたが、すぐに三善は否とかぶりを振る。
三善が行った『時間遡行』は、あくまで「その当時の自分に対し、脳の記憶情報を上書きする」だけだ。それ以外のことはできないはずだし、なにより
だとしたらこれは一体なんだ。
三善はゆっくりと立ち上がり、クローゼットの戸を開ける。三善の脳裏にひとつの仮説が浮上していたためだ。それを証明するならば、この場所を開けるのが手っ取り早い。
まさか、いやでも。そんな葛藤を胸に、三善は恐る恐る戸の中をのぞき込む。
――一番恐れていたことが、起こっていた。
***
自室を出ると、三善はゆっくりとした足取りで目的地を目指す。今は聖職衣ではなく、数枚ほどしか持っていない私服姿でいた。
その場所に到着するまでに何人かの聖職者とすれ違ったが、彼らは三善の姿を見るなり一礼し去ってゆく。
三善からは特段何も言わなかった。しかし、この状況は一体どうしたものだろう。困ったように右手で首筋を掻くと、その薬指に嵌まる金のインタリオリングが光る。
いろいろと確認することはあるが、まずは手近の問題から片づけるべきである。『それ』については、ほとんど時間が残されていないのだ。
そうしているうちに、三善は目的地に到着した。
部屋の戸を控えめにノックすると、数拍ののち、ゆっくりと戸が開く。
ああ、と思った。
「来ると思った」
懐かしい声がする。
その声を、一体どれだけ待ち望んだことだろう。
しかし、今それを行ってはいけない。
全ては、彼のため。
全ては、これから迎えに行く仲間のため。
三善は震える声で、眼前に現れた彼に言った。
「おはよう、ケファ」
――これより、第一〇〇九四回目の試行を開始する。
(第二部 終)
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