第四章 (5) 彼らのセカイ

 彼はこの場でそう言わなければいけなかった、ということも、三善は理解しているつもりだった。


 そもそもこれは箱館支部赴任当初に約束したことでもあったし、いくらふたりを守るためとはいえ、他にやりようがあったのも事実だ。気が動転すると己はとんでもないことをしでかす。自覚していたしそれ自体に後悔はないけれど、もう少し年相応の落ち着きがあったほうが良かったのかもしれない。


「待ってください、ブラザー・ロン」


 橘が口を開くも、今度は三善がそれを制止した。


「タチバナ、これはです」


 だからいい、と三善は短く切り捨て、それから橘の耳元でそっと囁く。


「ところで、お前今までどこに行っていたんだ。めちゃくちゃ探したんだけど」

「あ、ええと。それは――」


 そこまで言ったところで、ロンが橘の肩を叩いた。そして何も言うなと言わんばかりに首を横に振る。

 怪訝な顔をした三善をよそに、ロンがカナへ向けて口を開いた。


「ブラザー・カナ。あなたのことも拘束します。両手を出しなさい」

 そして彼は、三善のものと同じ拘束具をもうひとつ取り出す。「ブラザー・タチバナに対する不当な拘束、それから短時間ではありますが、幽閉。彼には特別異端と思われる言動は見受けられません。それにも関わらずあのような仕打ちを行うとは、一体どういうおつもりなのでしょう。シリキウス猊下とのやりとりを見る限り、その行動はあなたの私怨とお見受けする。私利私欲のためにこの能力を使うことは固く禁じられている。あなたもそれをよくご存じのはずです」


 ゆえに、とロンはカナの眼をじっと睨めつけた。

 それを聞いた三善は、なぜロンが橘の言葉を制止したのかようやく理解した。おそらく彼はカナの目を盗んで橘の拘束を解き、三善の姿を探してここまでやってきたのだ。それについて橘自身が状況説明するとカナに論破される可能性があったため、敢えてロンが動くことにしたのである。


 同じ異端審問官同士の争いだと言うのなら、それは第三者が口を挟むべきでない。


 三善は念のため、橘に小声で「それは事実か」と尋ねる。橘は首を縦に動かし、三善と別れたあとカナに腹部を殴られそのまま気絶、気が付いたら懺悔室に押し込められていたのだと説明した。そこをたまたまロンが通りかかったからよかったものの……と彼はしゅんと肩を竦めている。


「うん、分かった。ごめん、気づかなくて」


 この件についてはなかなかに根の深い話になりそうだった。


 それにしても、と三善は思う。

 三善は橘へ、次にカナへと目を向けた。


 この腕に施された拘束具のせいだろうか、先ほどまで展開していた釈義が一気に霧散しており、今は思うように聖気を操ることが出来ないでいる。そのままのろのろと拘束具に目を落とすと、金属の端のほうに『喪神術』でよく使われる祝詞が刻まれていることに気が付いた。


 それならば仕組みを理解しているため、壊すことは十分に可能だが――。


 三善が顔を上げると、ちょうどロンがカナに拘束具をつけるべく彼に近づいたところであった。

 ふと、三善は何かに気が付いた。カナの周囲から先ほどまで漂っていた釈義が消え失せている。仮にも釈義能力者がそんな状態に陥ることなど、通常はあり得ない。だとするとなんだろう。


 ――まさか、と三善は思う。


「ロン! 逃げろ!」

「……え?」


 ロンがその声に気を取られ、カナから目を離した。


 一瞬の出来事だった。

 ぱん、となにかはじけるような音がして、直後、ロンの身体がぐらりと傾いた。先ほどまで元気だった彼が、突然目を見開いたまま地面に臥す様は異様でしかなく。

 糸の切れた操り人形のように、不自然な体勢で。肉の塊が、転げ落ちた。


 頭が真っ白になるとは、このことを言うのだと思った。

 橘の嗚咽混じりの細い悲鳴を耳にし、三善はようやく現実に引き戻される。夢かとも思った。しかし眼前に突きつけられた現実は、何度も三善にその肉塊を見せつける。


「……なにを、した」

 ぽつりと、三善が呟いた。「こいつに、なにを、した」


 カナは足元に倒れる彼を一瞥し、それからこのように言った。


「彼は本来の契約と異なることをした。だから『楔』が発動した」


 それを聞いた三善の身体からとうとう力が抜け、膝からがっくりとその場に崩れ落ちた。彼のその言葉が、何をしても『全て無駄』なのだと告げている。彼に駆け寄ることも、意識があるかを確かめるというごく当たり前のことも。それすら許さぬほどに、彼の答えは残酷だった。


 楔の力が発動したら最後、苦しむ間もなく息絶える。

 それが『楔』の能力。大司教である三善が知らない訳がなかった。


 ロンが一体なにをしたと言うのだ。三善は言葉を失い、ただ茫然とうなだれるしかできないでいた。


 革靴の音が楔の音のように、一歩、また一歩と近づいてくる。

 思考が停止している。それくらい分かっていた。いまここでやるべきは、橘を救うこと。そうしなければいけない。しかし、身体が思うように動かなかった。身体が恐怖で震えている訳でもないのに、なぜかぼんやりと夢を見ているような気さえする。


 そうしているうちに、三善の目の前で足音が止まった。


「――どけ」

 冷たい一言が降りかかる。

 しかし、その声は三善に向けられたものではなかった。


「嫌です」

 もうひとつ、三善の前方から聞こえる声があった。


 橘だ。三善がのろのろと顔を上げると、先ほどまで横にいたと思っていた彼はいつの間にか三善の前に立ち塞がっていた。


「……猊下の計画を完遂させるために、今のあなたは障害でしかありません。どうかお引き取りを」


 橘が哮る。強気な発言をしている割に、膝が震えていた。しかしながら、三善はそれをうまく働かない頭で見つめるしかできなかった。どうしてこんなときに、身体が言うことを聞かないのだろう。どうしてこんな子供に全てを押し付けているのだろう。


 それでも身体は動かなかった。


「センセ、ごめんなさい」

 そして橘は言った。「本当に、ごめんなさい」


 ――見知らぬ聖気を、三善は感じた。

 それはまるで泡のようにむくむくと膨れ上がり、今にも破裂しそうなほどである。三善が放つ釈義のそれとは方向性が全く異なるそれは、目の前の橘からあふれ出ているものだとようやく気が付いた。そして、彼が今なにをしようとしているのかも。


「っ、だめだ、タチバ――」


 彼は一言、禁断の言葉を告げる。


「『釈義exegesis・展開』」


***


 そして、彼らのセカイは無情にも白く塗りつぶされてゆく。


***


 あたりは静寂に包まれていた。


 目の前に広がるは、一面の銀世界。触れても決して溶けることのない、雪ではない何かがしんしんと降り積もる。


 三善が意識を取り戻したとき、すでに生きているらしきものはどこにも見当たらなかった。


 しばらくあたりを見回して、ようやく、塩の中に埋もれるようにして二人分の肉の塊があるということに気が付いた。ようやく動ける気がして、三善はゆっくりと立ち上がる。


 刹那、三善の両腕を繋いでいた拘束具が粉々に砕け、足元に零れ落ちて行った。


 のろのろと肉の塊に近づき、その上に積もった塩を取り払う。見たことのある、黒い聖職衣が塩の間から覗いていた。


「――ロン」

 ぽつりと、三善がその名を呼んだ。しかし、その答えはない。


「リーナ」

 その答えはない。


「ホセ」

 その答えはない。


「ジョン」

 その答えはない。


「アンデレ」

 その答えはない。


「カナ」

 その答えはない。


「雨ちゃん」

 その答えはない。


「ケファ」

 その答えは、ない。


 三善はふらつく頭を抱えながら、塩により固まりかけた戸を押し開けた。

 夕暮れが近い。橙色の夕日が徐々に西の空を染め上げてゆくのが見える。塩による白色が太陽の光を反射して、より一層周囲がまばゆく見えた。光に弱い三善の瞳ではどうすることもできず、思わず目を細める。


「――タチバナ」

「はい」


 その声に反応し、三善は己の背後に目を向けた。


 橘がいた。彼は心底疲弊した様子で壁伝いに歩いていたが、三善の姿を見るなり表情をぱっと明るくした。そして勢いよく三善めがけて飛びつく。


 その勢いに負けた三善は体のバランスを崩し、そのまま塩の中に橘もろとも転がってしまった。幸い積もりたての塩はふかふかだったため、クッションの代わりになってくれた。


「よかった、センセ。生きていた」


 橘はそう言いながら、三善の胸の中で微かに声を震わせている。

 三善は橘ごとゆっくりと上体を起こし、それから、身体に何も異変はないかを尋ねた。いつものように、「大丈夫です!」という返事を期待していたのだ。


 しかし、橘は首を横に振るだけだった。三善の表情が曇る。


「俺、もう、だめみたいです」


 ほら、と橘はその両手を三善に見せた。――彼の両手は白く変色しており、まるで灰のようにぼろぼろと崩れ落ちている。


「俺の釈義の対価は、『俺の身体そのもの』だったみたいです」

 そして、彼はごめんなさい、と再び謝った。「センセ。勝手なことをして、ごめんなさい」

「――もう、いいよ。謝らなくていい。タチバナ」


 そもそもこうなったのは、と三善はきゅっと目を細め、絞り出すような声色で続ける。


「おれが判断をしなかったからだ。肝心なところで動けなくなったからだ。……お前には、本当に助けられた。ありがとう」

 なあ、と三善は問う。「このあたりは、もう、だめだろうか」

「おそらくは」

 橘はそれを肯定した。「……もう、だめでしょう」

「そうか」


 三善は言い、橘の頭に触れた。徐々に橘の身体が崩れている。その証拠に、触れた刹那、三善の手に塩が付着した。しばらく掌を眺めていた三善は、きょとんとする橘に対しこのように尋ねてみた。


「なあ、タチバナ。おれは、戻るよ。戻りたい」


 橘は瞠目しつつも、三善の言うことにじっと耳を傾けている。


「みんながいる場所に戻りたい。その場所に、どうかお前もいてほしい。だめか」

「俺がいると、またこうなるかもしれませんよ」

「させない」

 三善ははっきりとした口調で言った。「次は絶対に、させない。次は間違えない。だからタチバナ」


 そして三善は己の左耳に触れ、十字のついたイヤー・カフを外した。そしてそれを橘の左耳につけてやる。彼の耳元で、それは夕日を浴びてきらきらと瞬いている。かつて己の師が身に着けていた時も、ちょうどこんな風にきらめいていた。


「何年かかっても、……何回かかっても、おれがお前を迎えに行く。必ずだ」


 そのとき、一際強い風が二人に吹き付けた。細やかに飛ぶ塩が霧となり、周囲を白く濁してゆく。三善は思わず目を閉じ、塩が目に入らぬようにした。


 その時、三善の耳元で、橘の声がした。


「約束、ですよ」


 風が凪いだ。


 のろのろと三善が目を開けると、その場所に橘はいなかった。白く降り積もる塩の海の中、三善はひとり座り込んでいる。


 日が沈みかけていた。橙から、明るい朱鷺色、そして深い藍色へ。ひとりきりの世界には、そのどれもが色鮮やか過ぎて仕方がなかった。


 今この場にいない少年に思いを馳せ、三善はゆっくりと立ち上がる。そして、たった一言、聖典の一節を呟いた。


 それは『創世記』だった。

 彼は今、この塩化された世界で、神との関わりを「崩壊」の中で確認しようとしていた。


***


 心は既に決めていた。


 どの時点まで時を戻すべきか。どこまで戻れば再び橘に会えるのか。そして『終末の日』を確実に避けられるのはいつか。『姫良三善』がその日付を認識できるタイミングがいい。


 結論から言うと、それはひとつしかなかった。


 塩化により崩壊しかけた支部の戸を開き、三善は自室へと戻った。そして引き出しを乱暴に開け、プラスチックでできた書類ケースを取り出す。幸い、これはまだ塩に侵食されていなかった。その中から三善は一通の封筒を取り出した。中身を探ると、何枚にも及ぶ新聞記事が滑り落ちてくる。


 ――五年前の飛行機事故の新聞記事だ。


 三善は別の引き出しから紙とペンを取り出し、日付を殴り書きにし始めた。


「今日は、二〇一五年一月一三日。あの日は、二〇〇九年一月二七日」


 そして計算式をいくつか並べ、解を導く。


「つまり、二一七六日前。時間に直すと……、ええと、五二二五六時間。一回の遡行で四八時間戻るんだから、ええと、ええと、約一〇八九回。一〇八九回釈義を使えば、戻れる」


 の対価は眠りだ。任意のタイミングで細かく睡眠をとれば問題ないはず。確か記録によると、彼の釈義は一時間の睡眠で一〇〇回釈義を使えたはずである。つまり一〇八九回釈義を使うには、約十一時間の睡眠が必要になる。


「十一時間なら……大したことないな。問題ない」


 それで決まりだ。三善はゆっくり息を吸い、そして吐いた。

 あの釈義のトリガーは『契約の箱』を開けること。すでに世界は塩化しているのだから、今更『終末の日』について考える必要などない。


 三善は意識を集中し、胸の内に秘めている『箱』を開いた。


「『Eli,Eli,Lema Sabachthani.』」


 セカイが上書きされるかのようだった。自分の肉体がすべて喪失し、ばらばらになっているかのような感覚が三善を襲う。


 薄れゆく意識の中、三善は思う。


「……みんながいない世界なんか、意味がない。こんな世界、捨ててやる」

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