第四章 (2) さよなら、猊下

「――ボクがこの身体を使い始めたのは『A-P』プロジェクト発足時まで遡る。当時の大司教ヨハネスが『マリア』の原案を考え始めた頃の話だから、大体四〇年くらい前かな」

 ボクの能力は、とジェイは言った。「“暴食Gula”の能力は他の“七つの大罪DeadlySins”のものとは少しだけ異なる。ボクの主な能力は、『釈義と引き換えに自身の体細胞の劣化を止めることができる』こと。その気になれば不老不死にもなれるよ」


 だから見た目が昔からほとんど変わっていないのだ、と彼女は笑う。

 三善はじっと口を閉ざしたまま、彼女の話に耳を傾けていた。興味があるかどうかはまた別として、今はこの話を聞いておくのが適切だと判断したためだった。とりわけ“七つの大罪DeadlySins”と対話をするとき、彼らが小出しにしてくる情報は後から重要になることが多い。それを踏まえると、彼らは実のところ対立するべき相手ではなかったのだとも思う。


 ジェイは出窓のへりに寄りかかり、白衣のポケットに両手を突っ込んだ。


「その頃のボクは大司教ヨハネスと共に行動することが多かったんだけど、ある日訪れたエクレシア科学研で一人の女性に出会った。それがこの体の『本当の持ち主』。彼女はものすごく頭が良いんだ。それこそ、『A-P』の基礎理論をたったひとりで組み上げるほどに」


 もっと細かく言うと、後天性釈義を作ったのも厳密にはジェイではなく『本当の持ち主』のほうだと言う。今もなお使われ続けているその技術をひとりで構築するなど、普通に考えると到底無理な話だった。


 しかし、それを彼女は実現してしまった。大衆の面前でそれを証明してしまった。


「……でもね、その思想はエクレシアの中では異端な訳だよ。君も知っているでしょう?」

「『偶像崇拝の禁止』」

「そう、その通り」


 どんなに彼女の頭脳が素晴らしくても、どんなにその技術が革新的であったとしても、エクレシアという限られた世界においては決して理解はされなかった。

 その結果、エクレシアは後天性釈義という恩恵を受けつつも、彼女を『異端審問』にかけることにしたのだった。


 ヨハネスはそれに反対しようとしたが、――結論から言うと、それは叶わなかった。


「当時のヨハネスは未成年だったということもあって、枢機卿から一名、摂政として動いていた人物がいた。要するにそいつが旗振りをした結果、ということなんだけど……それを差し引いても、確かに彼の立場上教義に反することは推奨できなかったろう」


 さすがのヨハネスもその結果にはひどく落胆し、食事も喉を通らない状態に陥った。見るに見かねた“暴食”は、異端審問官に捉えられる前にと彼女の元を訪れることに決めた。


 さて、彼女は“暴食”に会うなり、はっきりとした口調で言った。


 ――医療も科学も、自身が知りうる知識は全て頭に入っている。この知識を、どうか『ある子供』のために使ってほしい。


「『ある子供』のところが妙に引っかかったけれど、ボクは彼女の言葉を受け入れることにした。当時のボクは男性の素体だったから、女性の身体を使うのは少し抵抗があったけれど……まったく無理な話ではなかったからね」


 ジェイはそう言うと、のろのろと瞼を閉じる。

 その後“暴食”はヨハネスの手を借り、『ジェイ・ティアシェ』という別人としてエクレシア科学研に身を置くこととなったが、そこでひとりの赤子に出会うこととなる。


 生まれながらにして特殊な釈義を持ち、故に地方の教会へ捨てられていた子供。


「それが彼女の言う『ある子供』――君の知るホセ・カークランドだ。彼女は分かっていたんだろうね、その子供が将来自分と同じ道を辿ることを」

 ジェイは淡々と語り続ける。「そんなこともあってボクは彼を守るために手を尽くすことに決めた訳だけれど、そうしているうちに『聖戦』が始まって。――それからは君の知る通りだ。ボクは何万回とこの世界が崩壊し、そのたびにやり直しが行われるところをずっと眺めていた」


 そのたびに彼女はホセと出会うところからやり直し、そして死にゆく様を目の当たりにする。それを延々と繰り返すだけの単調な時間。“七つの大罪DeadlySins”とはいえ、人並みの感情はある。徐々に己の思考が硬直し、ひび割れ、崩れてゆく。そんなことを考えていた矢先の出来事だった。


 ――一〇〇九二回目の、時間遡行。


「そこでようやく、シリキウス猊下が現れた」


 ここまでが昔話だ、とジェイは言い、改めて三善へと目を向けた。

 三善はその炎を連想させる紅い瞳を彼女のまなざしとかち合わせ、それから、ぽつりと囁くような声色で尋ねる。


「続きは?」

「続きは――、そうだな。まずはこちらの用件を済ませたほうがいいね」

 そしてジェイは三善へ向けて左手を差し出した。「“解析トレース”しなよ、猊下。君にはそちらの方が早いだろ」


 三善はその真意が分からず、ただ眉間をぴくりと動かしただけだった。はぐらかされたと感じ、少し警戒したのである。

 それに気づいたジェイは、差し出したその手で三善の手を無理やり掴んだ。


「早くして。ボクは結構真面目な話をしている」


 彼女が滅多に見せない真顔で言うものだから、三善は渋々“解析トレース”を行うことに決めた。近くにロンもカナもいるというのに、彼女はなかなかに無茶な要求をしてくる。


 三善の瞳の色が揺らぎ、いくつかの数式が脳裏に焼き付けられる。

 ふむ、と三善は何度か検算をし、それらが全て正しいことを確認すると、ジェイの手を振りほどいた。


「ものは言いよう、とはよく言ったものだ」

 そして三善は乱暴に言葉を吐き捨てた。「『釈義と引き換えに自身の体細胞の劣化を止めることができる』。……それはその通りだが、この数式を見る限り、『その逆』もできるんだろ」

「その通り」

 ジェイは頷く。「必要に応じて、『ある断面の細胞』までコントロールできるようになる。そういう意味では、ボクも大司教ヨハネス……、ああ、ちょっとめんどくさいな。彼の本名はテオドールっていうんだけど、彼と同じさ。彼が直線的時間の中を自由に行き来できるように、ボクは己に流れる時間を行き来できる」


 そして先に進むことを求めていないからボクは同じ地点に居続ける。

 そう言って彼女は瞼を閉じた。


「……君が生まれた真の目的はテオドールから聞いている。善とは本来ボクたちの心の外側にあるもの。それをボクたちが感じ取って初めて善というものを認識できる。――今のボクたちは本来未来へ向かって一方向に流れるはずの『時間』を逆行できてしまうがために、既に発生してしまった事柄に囚われたまま動けなくなった。それは善というものを内に求め過ぎたせいでもある。だからね、ミヨシ君。知慮、道徳、情念。ボクたちはその三つを善とし、以降永久に胸に留めておくことにしたんだ」


 だから君を『契約の箱』の所有者にするつもりも、ヨハネスの代わりに『時間遡行』をさせるつもりもなかった。


 ジェイは言う。


「ミヨシくん。大変都合のいいことを言ってしまうけれど、君はそういう目的で生まれた子だ。ボクたちが愚かなことをしたばかりに、ごめんね」


 三善は首に下げていた金の十字架を中指でなぞる。何か考え事をしているときの癖だ。しばらくそうしていると、三善はのろのろと口を開く。


「……もう、手遅れなんだな」


 ジェイはいいや、と首を横に振った。


「まだどうにかできる手立てはあるよ。でも、君はそれを選べない。ボクはそう確信している」

「つまり、時間遡行をしろと」


 ジェイは何も言わなかった。代わりに三善の手をとり、じっと金のインタリオリングを見つめる。シリキウスの印章が刻まれたそれは、傾き始めた日の光を浴びてより一層輝きを増す。


「ねえ、この指輪、絶対に手放しちゃだめだよ」

 そしてジェイは念押しするように言った。「それが君の身を助けてくれる。いいかい、絶対だよ」


 忘れるなと言われる物事が多すぎる。三善は露骨に嫌そうな顔をし、それからぷいとそっぽを向いてしまった。


 もちろんその態度は想定内だ。そう言わんばかりにジェイは肩を竦め、わざとらしくおどけて見せた。

 さて、とジェイは三善の手を離し、それからわざとらしく時計を仰ぐ。


「さて、ボクの用件は大方済んでしまった。君も早く持ち場に行った方がいいよ。今までの流れがあまりにも一〇〇九二回前回と似ているから、ボクはそれを気にしている」


 言われなくても、と三善は答え、聖職衣を翻した。そして執務室の扉に手をかけたところで、三善はゆっくりと振り返る。


 ジェイはそれに気がつき、「どうしたの」と声をかけた。


「参考までに。一〇〇九二回前回はこのあとどうなった?」


 ジェイは間髪入れず答えた。それを耳にした三善の表情からさっと血の気が引き、慌てた様子で執務室を後にする。そんな彼の背中を見送りながら、ジェイはぽつりと、誰に言う訳でもなく囁いた。


「さよなら、猊下」


***


 ――死んだよ。君以外の、全員。


 三善の脳裏に、その声だけがこびりついて離れなかった。

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