第四章 (1) 覚えていますか


 そしていよいよ、その日が訪れた。


 時計の針は午後一時を指していた。それを合図に、それぞれが担当地区へ向かうべく支部の玄関ホールへと集まり始める。もちろん三善は彼らを見送るために同じ場所へ集まり、ひとりひとりに対し祈りの言葉と祝福の接吻を贈った。


「幸運をお祈りしております」


 三善がそう言うと、彼らは決まっておかしそうに笑いながらこのように返すのだ。


「今さらそんなに畏まる必要なんかないでしょう。あなたの本性はよく心得ている。猊下」


 口調は異なるものの、一同全く同じことを言うものだから、三善は困惑しながら首筋を掻くしかできなかった。


 そして彼らは、ひとり、またひとりと正門を抜けてゆく。誰一人振り返ることなく、すぐに帰ると言わんばかりの素振りだった。


 ――そして最後にヨハンが残った。

 皆と同様に祝福の接吻を贈ったところで、ヨハンが三善の耳元でぽつりと囁く。


「猊下、覚えていますか」


 三善はきょとんとして首を傾げて見せる。彼が一体何を言わんとしているのか、咄嗟に理解できなかったためだ。ただでさえ、ヨハンとの間にはいくつもの約束事がある。一言で表すならば「一体どれのことだ」、だ。


 その様子を目の当たりにしたヨハンは思わず苦笑する。


「『Je ne peux pas vivre sans toi.』」

 いいですね、とヨハンは微かに語調を強めた。「決してこの言葉を忘れてはいけません。これが唯一あなたの存在を証明できる言葉。猊下と、私と、……あいつを繋ぎとめる『楔』です」


 それでは、とヨハンは背を向け、足を進める――かと思いきや、突然振り返った。そして何を思ったか、彼は眼鏡を外す。


。ヒメ」


 ヨハンは前を向き、門を抜け、そして己が向かうべき場所へと歩を進める。

 呆然としていたのかもしれない。突然のことに呆気にとられていた三善は、数拍ののちようやく彼の言葉を理解した。


 今なら間に合うかもしれない。そう思い、三善は慌てて支部の正門を飛び出した。


 ――しかし、その頃には既に彼の姿はなかった。


「……、ばか」


 三善はきゅっと目を細め、今はいない彼に毒づく。

 それくらいのことをしてもよいと思った。脳裏に蘇るは六年前の出来事だ。ちょうどあの日もこんな風に寒かった。あの日の彼は何と言ったろうか。……そうだ、会おうと思えばいつでも会える、と。そんなことを言っていた。


 彼は今も三善の胸の傷口を容赦なく抉ってゆく。

 いってきます、だなんて。彼がこの場所に戻る頃には、己はこの場所にはいないのに。


「だから嫌いなんだ。ケファ」


 三善は声色を落とし、震える声で呟いた。


***


 彼らが指定の場所に到着するのはだいぶ後になる。カナと橘はイヴのいる科学研エリアで待機していると言い、三善とは玄関ホールで別れた。


 三善も一緒に移動しようかと思ったが、少し考えてやめた。一度執務室に戻ると、革張りのソファにゆっくりと腰掛けた。


 少しの間だけ、一人になりたかったのだ。


 ――今のところは帯刀の予想通りである。明日の未明に落雷が発生する可能性が最も高く、それまでには確実に箱、もとい空間シールドを起動しておく必要がある。

 普通に考えれば確実に間に合う。しかし、妙に胸騒ぎがしてならない。最悪のことは考えておいたほうがよいだろう。


 間に合うだろうか、と三善は胸の内で呟く。


「……いや、」


 彼らならきっと大丈夫だ。絶対になんとかしてくれる。そう信じている。


 三善はこのあとイヴと接続し、以降釈義を展開し続けることになる。先にできるだけ対価はため込んでおいた方がよいだろう。そう思った三善はソファからゆっくりと身体を起こすと、あらかじめ用意していた己の釈義の対価を詰め込んだ箱を持ち出した。


「『釈義exegesis・展開』」


 その時だ。


 ころん、と三善の足元に何かが転がった。

 小さな鉄の箱である。ヨハンがかつて「持っていろ」と三善に渡したものだ。今の今まで、これを持って歩いていたことなどすっかり忘れていた。


 三善は自分が釈義を展開していることを忘れ、その箱を左手で拾い上げてしまった。

 刹那、鉄の箱はすぐに灰へ変換されてしまう。


「あっ」


 しまった、と三善は思う。ここ最近自分が釈義を展開することが減っていたため、随分と迂闊なことをしてしまったものだ。左手で金属に触れてしまえば、対価として吸収されてしまうのに。そのことをすっかり失念していた。


 さて、箱の中から出てきたのは一枚の紙きれである。

 三善がそれを拾い上げると、なにやら文字が書かれていることに気が付いた。


 ――二一七六日。


 日、とついているということは日数を表しているのだろうか。ふむ、と三善は考え、それを聖職衣のポケットに突っ込んだ。


 その時、執務室の戸が開く音がした。


「こんなところにいたの」


 ジェイだった。彼女はいつも通りのからっとした口調で三善に声をかけつつ、白衣の裾を翻した。


「いよいよだね、ミヨシ君」


 彼女はそう言い、三善の傍までやってくる。


「ええ。ここからが正念場です」

「ところで、。ちょっといいかな」


 なんです、と三善が首を傾げる。


「『塩化現象』がどうして起こるのか。君はその理由を知っているかな」


 それはかつてジョンにも尋ねられたことだ。なぜそれを今このタイミングで聞くのだろう。はて、と三善は思うも、素直にその問いに答えた。


「そりゃあ、まあ。要するにプロフェットの所有する『釈義』が――」

「やっぱりね」


 ジェイはふっと笑い、それから三善の両肩を叩く。


「薄々気づいていたけれど、君は一番間違えてはいけないところを間違えたよ」


 え、と三善が声を詰まらせた。

 彼女が一体なにを言い始めたのか、その真意が読み取れなかった。ただひとつ、彼女が明らかにいつもとは違うということだけを感じていた。


 三善は慎重に言葉を選びつつ、その意図を問い質す。


「そもそも前提条件が違うじゃないか。『塩化』する条件はふたつある。ひとつは君が言った通りだ。しかしそれは菖蒲十条、東西の発生メカニズムの説明。君は御陵のことまでは考えていなかった」


 いいかい、とジェイははっきりとした口調で言い放った。


「箱館地区の『塩化』は、後者の理由で発生する可能性のほうが圧倒的に高いよ」


 三善はじっと、彼女がそう断言する理由について考えていた。

 ――いくら考えても、三善の頭ではひとつの解しか浮かばなかった。しかし、それはなるべく、可能なことなら信じたくないことでもあった。


「……、あなたは、」

 三善は言う。「あなたは、まさか」


 ジェイが微笑み、それから三善の頬に右手をそっと添えた。


「初めまして、大司教テオドールの子。ボクが“暴食Gula”だ」


 そして彼女はするりと三善の唇に指を滑らせる。三善が見たことのない表情を浮かべていた。


「君は変なところで察しがいいから、気づいていたものだと思っていたけどね。ま、ボクがこの身体を使うようになってからは他の仲間とは一切会っていないから、当然だろうか」


 その言葉を耳にした三善は、かつて“色欲Ira”が電話越しに言っていたことを思い出す。


 ――あなたの近くにいる“暴食Gula”にもよろしく伝えておいてくれる?


 言葉の通りだった。本当に近くにいた。それも、何年も前から。まるで気づかなかった。


 混乱する思考の中、かろうじて三善が口にできたのは、

「どうして」

 というただ一言だけだった。


「どうしてもなにも。ボクは“七つの大罪DeadlySins”であることをやめただけだよ。今は普通の人間として過ごしているつもり。――とはいえ、今の状況ははっきり言って最悪だ。だから少しだけ口出ししに来た」


 目を剥く三善をよそに、ジェイは続けた。


「まずは、少しだけ昔話に付き合ってくれるとうれしい。君だって興味があるだろ、どうして君自身が生まれたか」

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