第三章 (6) 量子の海へ
帯刀に渡された資料によると、次に落雷が発生しそうなのは五日後とのことだ。
冬に落雷は珍しいな、と三善が言うと、それほど頻度が高いわけではないが全く起こらないことはない、とロンがコメントした。
となると、残された時間はごく僅かだということになる。
三善は携帯のカレンダー機能を立ち上げ、暫し逡巡する。
「……、うん。決めた」
今後の天候変動も考慮し、三日後には作戦を決行すること。その前日に『十二使徒』の任命を行うこと。
これらの内容を三善は簡単に伝えると、一同はようやく呆けた様子から真剣な表情になり、首を縦に動かしてくれた。
それを見た三善は、どうしてだろう。張りつめていたものが一瞬緩んでしまったようで、思わず昔のような気の抜けた笑みを浮かべてしまった。
***
気を抜くつもりなど、決してなかったのだ。
二日後、三善は戴冠式の時にも着ていた正装に着替えながらそんなことをぼんやりと考えていた。
なぜあの時、あんな顔で笑ってしまったのだろう。他の面々も珍しいものを見たと言わんばかりに食いついてくるし、むしろそちらの方が面倒で仕方がなかった。
あとから別件でホセと話をしていたとき、「あちらのほうが私はあなたらしいと思いますけどね」となんとも微妙なコメントをもらうくらいには周りを動揺させたらしい。
――可愛げがなくて悪かったな。もう昔に戻っている場合ではないんだ。
そんなことを考えつつ、三善は自室を後にした。一同が待つ聖堂へ向かうかと思いきや、その足は別の場所へ向かっている。
科学研の作業部屋だった。
三善が顔を覗かせると、それに気づいた他の技術者たちはぱっと表情を明るくさせ、しきりに奥へ来るよう勧めるのだった。
というのも、ここに来ることそれ自体に重要な意味があったからだ。
三善が部屋の最深部に足を踏み入れると、寝台にイヴが横たわっていた。
彼女はいつもの女性用スーツではなく、薄手のネグリジェを身に纏っている。後ろでひとつにまとめている長い髪はほどかれ、眼鏡も外してあった。
こうして見ると、彼女は本当に『姫良真夜』そっくりに造られたのだと実感せざるを得なかった。
横たわる彼女の横には、何やら巨大な黒い箱がずんぐりと立ち並んでいる。三善の身長をゆうに超える大きさのそれには既にいくつもの配線が繋げられ、いつでも起動できる状態にあった。真横に立つとファンがうるさく、吐き出される排気で髪がなびいてゆく。
「
尋ねると、技術者の一人が「ええ」と頷いた。
「今のところ、イヴの中身を移植した状態の稼働率に支障はありません。まだ実際に移植した訳ではないので、あくまで予想ですが」
「まぁ……本体よりこっちの方が容量でかいし、彼女も自由に動き回れるとは思うよ。それほど心配しなくても、彼女はマリアのように複雑な造りをしていない」
さて、と三善は横たわるイヴの寝台に腰かけ、そっと髪を梳いてやった。その優しい感触に彼女の睫毛がピクリと動く。
「無理をさせてしまってごめん。君には本当に頭が上がらない」
三善の言葉に反応してか、そっと彼女は瞳を開けた。薄氷色の瞳が、三善の姿を探して微かに震える。
「
「どう、あちらの居心地は」
その問いに、イヴは微かに困惑した表情を浮かべる。おや、と思うが、それを敢えて三善は指摘しなかった。
「この身体より、幾分、動きやすいです」
「そりゃあそうだろうね。容量がケタ違いだからね、あちらさんは」
イヴが再び三善を呼んだ。彼女の細い手が、ひたりと三善の頬に触れる。人工皮膚の滑らかな感触が指先を介して伝わってくる。
その行動に、三善は思わず目を瞠った。
「イヴ?」
「
何事にも動揺せず、ただ職務を遂行するように。ただ、それに『愛情』なる心を付与しただけの人工預言者。その心の部分を作ったのは紛れもなく三善本人だが、まさかそんな風な質問を投げかけてくるとは思っていなかった。
どういうこと? なんて野暮な問いかけはしなかった。三善はただ、微かに触れてきたイブの細い掌を強く握り返す。それが、一番の答えだと彼は思っていた。
「うん。イヴはイヴだ。それ以外の何者でもない」
「よかった」
そして彼女は笑う。どこか安心した風に、力の抜けた微笑みだった。
その表情は、三善の記憶の奥深くにちらついているとある人物のものと非常によく似ている。
――これじゃあ、おれも親父とやっていることは同じじゃないか。
三善は呆れ交じりに溜息をつき、それから自分の頬を一発叩いた。
「さて、そろそろやってしまおうか」
イヴ、と三善が彼女の名前を呼ぶ。薄氷色の瞳がきらりと瞬いて、三善の真紅と交錯する。
「
「うん。向こうで待っていて。すぐに追いつく」
そして、三善は人差し指と中指をクロスし、自分の頬とイヴの頬に軽く触れた。
「ええ。待っています」
そしてイヴの瞳が完全に閉じるまで、三善はそのままじっと彼女を見つめていた。もう一度髪を梳いてやる。今度は反応を示さなかった。自ずから電源を落としたのだろう。
「――もういいよ。イヴの中身を移してやって」
「承りました」
三善の言葉を合図に、技術者たちが動き出す。イヴの身体から四角い箱のようなものを取り出し、例の量子コンピュータへと移植する。彼女が普段持ち合わせているはずの全神経を、『一部』を除いて全てシャットアウトした。そしてその『一部』を、もうひとつ存在するブラックボックスへと強制接続する準備を整える。
その作業を、三善は敢えて手を出さずにぼんやりと見つめていた。最後まで見届けるつもりでこの場に残っていた。
今回の計画は、全て彼女にかかっている。
そんなことを言ったら、イヴは苦笑して、「またあなたの我儘ですか」と文句を言うに決まっている。今は人間らしい容貌ではないけれど、きっと彼女はそうするはずだ。
ごめん、と、ありがとう、と。
伝えたいことは山ほどあるけれど、それはいずれ自然と彼女へと伝わってしまうことだから、何も言わないでおくことにした。
ただひとつ、
「……頑張れ、イヴ」
これだけは言葉にしておきたかったので、誰にも聞かれぬようそっと小声で囁いた。
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