第三章 (2) もう、見えない
その後三善は執務室にこもると、溜まった仕事を怒涛の勢いで片付けた。ひとまず緊急性の高い内容についてのみ処理し、休憩がてらゆったりとソファに体を預ける。
「主人。お茶を淹れましょうか」
その姿に気が付いたイヴが尋ねたので、三善は左手をひらひらと振りながら、
「ああ、うん。温かいほうじ茶が欲しい」
とだけ伝えた。
空腹で頭がぼんやりとしているが、とりあえず最低限用意すべきものは準備できたつもりである。
三善は天井を仰ぎ、一度話を整理することにした。
宮部に依頼した『例の件』の進捗はほぼ完了との報告を受けている。ロンに依頼した契約書類も予定通り準備が進んでおり、明日には原本が返送される見込みだそうだ。リーナの釈義検査については結果が出ているため、あとはそれをもとに本人と面談すればよい。
残るは橘の『釈義』についてだが――。
そこまで考えたところで、三善の肩がビクンと震えた。懐にしまっていた二つ目の携帯が着信を訴えて震えている。少し気を抜いていた三善は驚きながらも滅多に鳴らないその携帯を取り出し、受話ボタンを押下する。
「もしもし、ゆき君?」
電話の向こうで、彼――帯刀が短く「ひさしぶり」と声をかけた。
三善は執務室の錠を落としつつ、うん、と頷いている。彼と話すのは本当に久しぶりだった。最後に言葉を交わしたのは碇ヶ関の一件以来である。慶馬とは教皇就任後に会ったものの、あれは半ば慶馬の私用と言ってもよい内容だった。
帯刀はいつも通りの淡々とした口調でいる。
『元気だったか?』
「あんまり元気じゃないけど、まあ、大丈夫」
『今度はなにをやったんだ』
半笑いで言う帯刀に、三善は胃腸炎だよ、と返した。
「それで、どうしたの」
『いや、少し会って話ができないかと思ったんだ。でも体調が悪いなら後でも……』
「いや、行こう。そういうのは早いほうがいい」
どこに行けばいい? と三善は右肩に携帯を挟みつつ、手帳とペンを取り出した。
『みよちゃんのそういうところ、本当に好きだよ』
帯刀が電話越しに笑う。『支部まで迎えに行こう。猊下はなるべく動かないでほしい』
「……、わかった。ありがとう」
彼がそう言った意図はなんとなく理解できた。ならば言う通りにした方がいい。
その後二言三言言葉を交わし終話した。
三善は執務室に備え付けてあるクローゼットからプロフェット用の聖職衣を取り出し、そちらに着替え直す。それから、黒い外套と外出用の鞄を用意すると、最低限の荷物とビニール袋――万が一体調を崩したときのためである――を鞄に放り込んだ。そこまで準備したところで、ふとなにかを思い立ったらしい。三善はデスクまで駆け足で近づくと、メモ用紙に何やら複雑な模様を描き始める。
「主人? お茶が入りましたが……」
そんなとき、給湯室からイヴが顔を覗かせた。その手には湯のみを乗せた盆。三善はメモ用紙をちぎり懐にしまうと、彼女から湯呑を受け取った。
「ちょっと出かけてくる。ゆき君のところだから、安心していいよ」
「そうですか……?」
私も行きましょうか、とイヴが言うので、三善は首を横に振る。
「たぶん、ものすごくプライベートな話になるから」
***
迎えの車が到着し、三善は早速後部座席に乗り込んだ。
運転はいつも通り美袋慶馬である。帯刀は後部座席の右側に腰掛けており、扉が開いた音が耳に入るとはっと肩を震わせた。
帯刀は馴染みのぱりっとしたスーツにダークグリーンのモッズ・コートを着用している。だいぶ伸びてきた茶髪の隙間から覗く眼帯は、前に会った時にはなかったものである。
「よろしくお願いします」
三善が声をかけると、
「みよちゃん」
帯刀は顔をあげ、眼帯が施されていない右目で三善の姿を捉えた。――否、眼球は確かに三善へ向けられていたが、その瞳はどことなく焦点が合っていない。濁った青い瞳には何も映らないのだ。
車は静かに走り出す。
「久しぶり」
三善がそっと声をかけると、帯刀は首を縦に動かした。
「みよちゃ……、ああ、もう気安く呼んではいけないな。貴重なお時間を頂戴してしまって申し訳ない、猊下」
「構わないよ。こちらこそありがとう、そろそろ会って話をしたいと思っていたんだ」
美袋さんもありがとうございます、と三善が挨拶すると、慶馬はバックミラー越しに小さく会釈するだけだった。
「――もう、『見えない』んだね」
三善が囁いた。
帯刀は苦笑しながら手を伸ばす。その両手はゆっくりと三善の両腕を取り、感触を確かめるように数回袖口を撫で上げる。刹那、おや、と彼の表情が変わった。
「猊下、なんでいまさらプロフェット用の聖職衣なんか着ているんだ」
「白いやつは目立つから」
感触だけで判断したのだろうか。三善がはて、と首を傾げたところで、帯刀は微笑んで見せた。
「猊下も大変だな」
そして帯刀は言うのだ。「今日は猊下に頼みたいことがあって」
「おれに? おれにできることなら、まぁ、多少は手を貸せるけど」
「うん。まずはこっちの方が先かな」
これを、と帯刀は三善に一枚の紙切れを差し出した。怪訝に思いながらもそれを開くと、三善ははっと目を見開いた。
「これ……」
なぜこれを、と三善はがばりと帯刀の顔を見た。彼は依然宙をぼんやりと仰いでいるだけだったが、その声色からなんとなく三善がこちらを見たのだと推測したのだろう。
「俺が何年みよちゃんの友人をやっていると思っているんだ」
離れていてもあなたが考えていることは分かるよ、と帯刀は続ける。「道南地区における一月の気象条件。これは随時変わるものだから参考程度にしておいて。それから、ポイントとなる『箱館山』『裏箱館山』『エクレシア箱館支部』の釈義保有量の平均値と最大値。やはり道南地区の場合はこの三か所を起点とするのがよいだろう。あとは、猊下。『あれ』を使うんだろ」
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