第三章 (1) カナ・アイスラー
帝都が言うには、「おそらく胃腸炎でしょう」とのことである。種類までは特定できなかったが、時期が時期だけにウイルス性である可能性を考慮ししばらく三善の部屋に入室制限を設けることとした。
帝都による指示の下諸々の手配を終えたロンと、全ての後処理を終えた神楽が三善の自室までやって来た。今は三人が膝をつき合わせた状態で、今後のことについて相談していた。
「猊下、十二月に入ってからはあまり積極的に食事を摂りたがりませんでしたからね。もしやとは思っていましたが……」
帝都の言葉を聞き、ロンと七緒は思わず納得してしまった。
大司教就任前は大食らいもいいところだったのだが、今月に入ってからは誰とも食事と共にせず、ひとりでチューブ型のゼリーを飲んでいることが増えた。毎朝の習慣となっていたコーヒーをイヴが淹れると「ミルクを多めに入れてほしい」と言い、果てには「ほうじ茶の方が……」と自分でお茶のパックを持ち出してきたほどだ。
よく考えてみるとおかしいことばかりだった。それ以外がいつも通りだったせいか、誰も不思議に思わなかったのである。
「とりあえず、嘔吐と下痢が収まるまでは自室待機です。先ほど吐いたばかりとのことですので、少なくとも嘔吐については半日くらい症状が続くと思います。脱水を起こさないよう、今日は点滴を打っておきましょう」
帝都の話を布団の中でぼんやりと聞いていた三善は、後半の台詞を耳にするなり突然身体を起こした。
「ブラザー、点滴はやだ……」
「あなた、自分の弟子が頑張って採血に挑んだと言うのに、自分は逃げるんですか」
帝都が容赦なく切り捨てる。「あなたが注射嫌いなのは知っています。体調管理も仕事のうちだと何回言わせたら気が済むんですか」
それに拍車をかけるように、続けてロンが溜息混じりに言った。
「猊下。この際はっきり言うけど、その状態でうろつかれると迷惑だからやめて」
その言葉が思いのほか効いたようで、三善はぐっと息を飲んだ。そして渋々頷いたのを見て、ようやく彼らはほっと肩を撫でおろした。
この大きな子供を納得させるのは、意外と骨の折れる作業なのだ。
さて、帝都が手早く点滴の準備を行い、彼の白い腕に針を刺す。二時間後にまた来ると言い残し、神楽と共に居室を後にした。
その間、横になっている三善の傍らでロンは自分の仕事を片付けることにした。
時折苦しげに呻いている三善の額の汗を拭ってやると、それだけで少しは楽になるようだ。虚ろな赤い瞳がのろのろとロンを仰ぎ、「ごめん」と唇が動く。
「ちょっと眠ったら?」
ロンの言葉に、珍しく三善が素直に頷いた。
「なぁ、ロン」
「なに」
「ありがと」
「それは治ってから言ってくれないかな。大体にして、今年に入ってから何回倒れたと思っているの。げーか」
それはもう、数え切れないほどだ。三善は閉口し、それからうわ言のように呟いた。
「正直、寝てる場合じゃないのに……」
「その発想がだめだってば。何度も言うけれど、みよさまの代わりはいないんだよ」
そう、彼の代わりなど存在しない。
たとえば、かつて三善がなりきろうとしたケファ・ストルメントですら、彼の代わりにはなれないのだ。放っておくと自分をないがしろにしていく彼は、見ていて痛々しいし、何故頼ってくれないのかと苛立つこともある。
どれだけ自分を犠牲にすれば気が済むのだろう。いっそのこと、全部投げ出してどこか遠いところへ連れ出してしまえばいいのだろうか。それは本人が望まないことだと分かっているけれど、そこまでしなければ彼が自分の存在価値に気付くことは決してないのだろう。
なんだかんだ言って、自分は彼を好いているのだな、と改めて実感した瞬間だった。
ロンは短く息を吐き、静かに操作していた端末のディスプレィを閉じた。
三善へと目を向け、ようやく彼が眠りについたことを確認すると、音を立てぬようそっと席を立つ。
「おやすみ」
そう呟いたとき、ロンはふと、簡素な机の上に山積みにされたファイルに目を留めた。百科事典ほどの厚さがあり、ところどころ付箋が張り付けられている。はみ出た付箋にはインデックスのつもりだろう、赤のボールペンでなにやら書き込みしてある。伝達の都合で普段英語かラテン語で指示文を書くことが多い三善だが、これは敢えての日本語だ。
そういえば先日、ホセがいそいそと二穴パンチと格闘していたのをちらっと目にした気がするが――これは一体なんだろう。
ロンがそれに触れようとした刹那、
「――そうだ、ロン」
背後から突然三善の声が聞こえた。さすがのロンもこれには驚いた。思わず大袈裟にその身をびくつかせてしまったほどだ。
「なに?」
そもそも起きていたのか、と跳ねあがる心臓を宥めながらロンが尋ねると、三善は抑揚のない声で言った。
「忘れていた。教皇庁特務機関に伝令を。呼んでほしい人がいる」
***
三善の体力は極限まで落ち込んでいたため、復活するのになんと一週間近くかかってしまった。否、寝込んでから三日目あたりには大方回復していたのだが、ロンや橘、リーナ等の支部の面々が勝手に働かないかどうかを徹底的に監視していたため、動こうにも動けなかったのである。
暇を持て余した三善は黙々とホセが置いていった分厚いファイルを眺め、最終的に五周くらい読み直してしまったほどだった。
そして現在、布団から上体のみを起こした状態で三善はその人物と対面していた。
背が高く、個性的な青と橙の縦縞模様の衣装に身を包む西洋人。
ヴァチカンの衛兵である。
彼らの本職は教皇の護衛、言うなれば三善の直接的なSPのようなものである。正直なところ、三善は自分で自分の身を守れる自信があったので敢えてこれを置かなかったのだが――その代わり、大司教補佐であるジェームズを守ってやって、という指示を出していた――、ひとりだけ、傍に置いておきたい人物がいた。
「すみません。先日から体調を崩しておりまして」
咄嗟に三善は『いい子の仮面』を装着し、にっこりと慈悲深き微笑みを浮かべている。
「おひさしぶりです。戴冠式以来ですね」
カナ・アイスラーだ。
本来呼ぶつもりはなかったのだが、熱に浮かされていたときに何故か彼の存在を唐突に思い出したのである。普段彼はジェームズの付き人をしているそうなのだが、「猊下が言うなら……」と彼ははるばる箱館までやってきたのだった。
カナは三善の前で最敬礼し、それからこのように言った。
「お加減はいかがですか、猊下」
「大分いいです。……あの、わたくしが言うのもどうかと思いますが、無理しなくていいのですよ。少なくともわたくしの前では」
三善の言葉に、カナははっと目を見開いた。明らかに彼は動揺している。
三善はくすりと微笑み、それからわざと挑発するような物言いをして見せた。
「あなたは『ブラザー・ジェームズ』からお借りした『大切な部下』です。彼の力量は認めているつもりですよ、わたくしは」
わざと力を込めて発言した箇所に反応してか、カナは不快そうにぴくりと眉を動かした。
「……ええ。私の帰る場所は、
「問題ありません。私は別に護衛を求めているわけではないですし」
――要するに、彼はジェームズ信者なのである。
それを知っていた三善は、気持ちの悪い腹の探り合いをしなくてもいいよう先に手を打ったのだ。
「とはいえ、今回の『塩化』現象については正直猫の手も借りたいほど。少しの間ですが、お力添えいただけますと非常に助かります」
これからよろしく、と三善が握手を求め右手を差し出した。戴冠式前日と同じ行動だ。
あの日のカナは躊躇いがちに握手してくれたが、今日は違った。三善の右手を彼は払いのけ、無言のまま彼は部屋を出て行った。
それと入れ替えにロンが部屋に入ってきた。静かに扉を閉め、外に人の気配がないことを確認してから、彼は口を開く。
「猊下。なんでブラザー・カナなんか呼んだの? 絶対嫌がらせでしょ」
「うん、嫌がらせだ。それ以外になにがある?」
誰に対する、という部分は敢えて口にしなかった。その様子を見て、ロンは呆れた様子で溜息をひとつ洩らす。
「あのねえ。わざわざ敵を増やすような真似はしないでって、何度言ったら分かるの」
「パフォーマンス的に必要なことだ。我慢しろ」
それに、と三善は続ける。「大丈夫、彼は信頼できる」
「どうしてそう言い切れるの」
珍しくロンが食いついてくるので、三善は肩を落としながら、いつもの聖職衣に袖を通し始める。
単にはぐらかしているだけじゃないか。ロンは半ば怒りながら、そんな三善の背中にひたすら声をなげかけた。
「――どうして、って」
緋色の肩帯を肩にかけたところで、三善はゆっくりと振り返る。
「お前の味方を連れてきただけじゃないか。もっと喜べよ」
そう言うと、三善は自室から出ていってしまった。パタン、と閉じる扉の音をぼんやりと聞きながら、ロンは目を剥いていた。
動こうにも動けない。それだけ、彼は今動揺していた。
――今、あのひとは何と言っただろうか?
再び扉が開く。顔を覗かせたのは、この部屋の主ではなかった。つい先ほど、先に出ていってしまったはずの男だ。
「ブラザー・カナ」
絞り出すような声色で、ロンは呟いた。
「……お前の仕事ぶりは、間接的にだが聞いている」
カナが素っ気ない口調で言い放った。「同じ異端審問官として鼻が高いよ」
「心にもないことを言うんじゃない」
ようやくロンが振り返り、彼が滅多に見せない怒りの表情を露にする。
「お前は、あの方を失墜させるために来たんじゃないのか」
「もし仮にそうだとしたら、猊下が俺を指名した理由がつかないだろう。俺には、あのひとが何らかの計画を人知れず練っているようにしか見えなかったが――」
「あの方は、お前の正体にも気付いているぞ」
「だから、『わざと』なんだろ」
そこまで言うと、カナはそっとロンの肩を叩いた。「俺がどういう意図で呼ばれたのかはまだ分からないが――安心しろ。もしも異端審問官として職務を遂行しなければならなくなった際は、お前の手助けをしてやる」
ロンは何も言えず、ただじっと足元を見つめるしかできなかった。
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