第二章 (5) 最後に残ったのは

 採血など一通りの健康診断を終えた橘は、少しの休憩を挟んで支部併設のトレーニング・ルームまでやってきた。


 本来は倉庫として使っていた場所だが、三善が赴任した際「釈義の練習場所は作るべき」と言い初め、リーナと共同で改造したのである。広さも十分に確保しているので、三善やリーナが使っていないときは普通の体育館として開放していたりもする。かくいう橘も、ひと月前に行ったチャリティイベントの際にこの場所を訪れていた。


 橘が室内に入ると、既に三善とリーナがおり、彼女の診断書を眺めながら何やら話し込んでいる。


「――という訳だ。この後雨ちゃんが来るから、そのつもりで」

「分かったわ」

 そう言うと、リーナは軽い準備運動を始めた。「猊下と一緒のトレーニングは久しぶりね。赴任以来じゃない?」

「そうね。だってお前と一緒にやると流れ弾が怖いんだもん……。命がいくつあっても足りない」


 あれを避けながらの訓練は結構難しいんだ、と三善は口を尖らせた。

 そこまで言うと、三善は橘の姿に気が付いた。彼へ向け手招きをすると、三善はリーナへ向き直る。


「橘は今回実技の検査はしないけれど、見学ということで。先輩の意地を見せてやって」

「もちろん」


 橘が三善のもとまでやってきた。ふと橘が目を向けると、少し離れたところで科学研三人衆が調査用の機材を持ち込み、あれこれと準備を始めている。


「タチバナは見学だ。おれと一緒にいてね」


 三善が言うと、彼は改めて手にしていたリーナの診断書へ目を落とす。


「えーと、とりあえず釈義展開させればいいのかな。釈義の検査に立ち会うなんて初めてだからなぁ、勝手が分からん」


 室長、と三善がジェイに向け片手を挙げた。それで問題ないか尋ねると、観測機をセットしていたジェイが片手を挙げた。どうやら肯定しているらしい。


 そのとき、橘が三善の聖職衣の裾を引いた。


「どうした?」


 尋ねると、橘がなにやら神妙な顔をして三善の紅い目を見つめている。ややあって、彼は三善から目を逸らした。その様子に三善はなにか感じ取ったのだろう。手にしていた診断書を一旦リーナへ預け、一度トレーニング・ルームを出た。

 二人きりで話せる状況だということを確認した上で、三善は橘に声をかける。


「もしかして、橘もやってみたい?」


 なんとなく、彼がそう感じているような気がしたのだ。

 もちろん橘に『パンドラの匣』――『イスカリオテのユダ』の釈義について話をした際、その能力は発動させてはならない旨を伝えてはいる。正直なところ、橘が釈義を展開するとどうなるか分からないからそうしているというのが本音だが、橘からしてみれば「自分は本当にそんな大それたものの持ち主なのか」と不安に思っているに違いない。そうでなければ、碇ヶ関であんな行動に出るはずなどないのだ。


 三善の問いに、橘はひとつだけ頷いた。


「俺自身の話をしているはずなのに、俺だけ蚊帳の外に出されているような気がして、辛いです。とても辛いのです」


 その言葉だけで十分だった。

 三善はそうか、と短く呟くと、橘の頭に手を置いた。


「……、そうだよな。元々お前の能力をはっきりさせようと言ったのはおれだしな。分かった」


 そして三善は橘の頭を撫で、彼の左手を取る。


「えっ……?」

「少し黙っていて」


 そして三善は橘の声を遮るように、彼の両頬に祝福の接吻を落とした。


***


 二人が改めてトレーニング・ルームへ入室すると、三善が開口一番このように宣言する。


「予定変更。タチバナの釈義調査を先に行うことにする」

 そして三善はリーナの名を呼んだ。「万が一のことを考えて、いつでも釈義を発動できるようにしておいてほしい。頼めるか」


 いつになく真剣な面持ちでいる三善に、リーナは強く頷いた。


「任せて」


 そのとき、おい、とジョンが三善に声をかけた。隣にいる橘に聞こえないくらいに声色を落とし、鋭い口調でその真意を問い質す。


「一体どういう風の吹き回しだ」

「ん、ああ……」


 三善はのろのろとジョンを仰いだ。

 その表情を見て、ジョンははっと身を固くする。他の人員には気づかれないよう上手に隠しているが、三善は明らかに『釈義』を行使した後のように体力を消耗させていたのだ。

 目を離したすきに、確実に、三善はなにかを行った。そしてその内容は容易に想像できる。


「わたしの世界とタチバナとを秤にかけただけです」

 三善は己の前髪を掻き上げた。「先ほどあの子に『楔』を打ちました。なにかあったら私がどうにかします」

「どうにかって……」

「これが最後だから」

 ジョンの言葉を遮るように、三善がきっぱりと言い放つ。「あの子に対して先生らしいことをしてやれるのは、おそらくこれが最後です。ブラザー・ジョン、あなたがブラザー・ケファの代わりになろうと努めたように、私はあの子にとって善き先生でありたいのです」


 だから止めてくれるなと三善は目線だけで訴えた。

 二人の間に訪れる僅かな沈黙。言葉を失ったジョンは、やるせなさを胸の内になんとか押し込め、長々と息を吐き出す。


「……分かった」


 だが最優先事項はお前だ、と短く突き放しように言い、ジョンは機材の場所まで戻っていった。


 そうしているうちに土岐野が姿を現した。彼女は聖職衣の裾を翻しつつ早足で三善らのもとまで近づく。


「お待たせ。遅くなってごめんなさい」


 それは大丈夫だ、と三善は短く答える。

 そして三善は簡単に土岐野へ事情を説明した。本来はリーナだけ行うつもりが急遽橘まで実技検査が入ることになったため、彼にも『釈義譲渡』をお願いできないか。そんな内容を土岐野へ伝えると、彼女は二つ返事で了承した。


 それじゃあ、と土岐野は橘の手を取る。


「『釈義exegesis展開』」


 土岐野の周囲に釈義独特の聖気を感じた。三善自身、彼女の釈義を見るのは数年ぶりだった。以前見せてもらった際はもっとたどたどしかったのだが、今の彼女は立派な能力者の一員だ。彼女が途方もない努力を重ねたのだということを、三善は改めて感じていた。

 しばらくそうしていると、土岐野が突然息をついた。途端に、彼女を取り巻く聖気が霧散したことに気が付く。


「これでいいわ」


 橘は呆けた様子で己の手を見遣る。何が起こったのか分からない、とでも言いたげな表情である。念のため三善が「なにかおかしいところはあるか」と尋ねたが、橘はすぐに首を横に振った。


「なんだか熱いものが身体に流れ込んだ気が……。それ以外は、なにも」


 それは釈義能力者プロフェットがとてもよく知る感覚だ。それを聞き、三善は改めて橘がその身体に『釈義』を循環させる機構を持っているのだと実感した。聞くところによると、非能力者はこの感覚が分からないのだそうだ。そんなことを司教になりたての頃アンデレが言っていたのを思い出す。


「それじゃあ、やってみますか」


 三善はリーナへ目を向ける。彼女は既にサポートする準備を終え、大きく頷いていた。土岐野も彼女にならい『釈義』を発動する準備を整えた。科学研メンバを見ると、彼らも全ての準備を終えていた。

 ジェイがゴーサインを出す。


 タチバナ、と三善がその名を呼ぶと、不安そうに橘が三善を仰いだ。


「『パンドラの箱』とは?」


 三善の問いに、橘は思わずきょとんとした。それは何度か耳にした、『イスカリオテのユダ』の釈義の異名ではなかろうか。橘がそう告げると、「そっちじゃない」と三善が訂正する。


「神話の方だよ。ゼウスがパンドラに持たせた、禍を封じ込めた小箱のこと」

「あ、はい。それなら知っています。パンドラの箱を開いたために不幸が飛び出したと言う――あ、」


 うん、と三善が肯定する。


「そもそもパンドラとは、『全ての賜物を与えられた女』という意味だ。タチバナ、お前いま一瞬躊躇っただろ。もしかして自分が不幸の根源だって思った?」


 図星を突かれたのか、橘は目をそらしたままじっと黙りこんでしまった。三善はくすりと笑い、橘の両肩に手を置く。


「お前の『匣』の名前は、そういう意味で付けられた訳じゃない。パンドラの箱からは確かに不幸が飛び出したが、最後に残ったのは『希望』なんだ。お前の『釈義』には希望がある。そう思ったから、敢えてそんな名前をつけた」


 だから安心しろ、と三善は言う。


「大丈夫、怖がらなくていい。おれが一緒にいる」


 その言葉を聞いたら、橘の胸の内に溜まるどす黒いものが不思議と霧散してゆくのを感じた。


 ああ。

 橘は思う。

 ――このひとは、どうしてこんなにも優しいのだろう。


 徐々に独特の熱が身体を巡っていくのを感じる。燃えるような熱さだ。戸惑いはしたが、もう怖くはなかった。ちりちりと胸の中心に焦げ付くような痛みが走る。

 遠くのほうでジェイが声を上げる。


「『釈義』正常!」


 その言葉を待っていた。よし、と三善は短く呟き、橘から手を離す。まだ、不思議な熱は身体の中を延々と廻っている。


「やってみろ、土岐野橘」


 目の前に立つシリキウスに促されるままに。橘の脳裏に、微かにが過って行ったが、すぐに遠ざかって見えなくなった。

 橘の口唇が、ようやく動いた。


「『釈義exegesis、展開』」

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