第二章 (4) 迎えに来てくれた日

***


 その頃、三善は執務室のソファに腰掛け、イヴのメンテナンスをしていた。


 箱館支部配属直後はもう少し頻繁に行っていたのだが、ここ最近はあまり構ってやれていなかったのである。いくら人間に近い出で立ちをしているとはいえ、その正体はただの量子コンピュータだ。機械である以上人の手はどうしても必要になるし、『A-P』の仕組みを熟知している人間でなければ怖くて触れない。そんな理由もあり、彼女のことは三善がひとりで面倒を見ていた。


 彼女の左の薬指にケーブルを接続すると、三善は管理用パスワードを入力する。すると、三善の隣に座るイヴはのろのろと瞼を閉じ、三善の方へもたれかかった。

 おっと、と三善は短く呟くと、無線接続のヘッドセットを頭に乗せる。

 膝の上に乗せている小型の端末へ目を向け、三善はこのように言った。


「悪いな、狭いだろ」


 すると、モニタ上に小さなプロンプト画面が勝手に出力される。そして『いいえ。こちらのほうが私にとっては広く感じます』とだけ入力された。


 イヴは同じ『A-P』であるマリアとは異なる構造をしている。マリアの場合は「ホセの釈義の代わり」として造られているが、イヴの場合は「三善のアシスタント」というシンプルな理由で造られた。そのため、彼女は『人工預言者』と銘打っているもののプロフェットらしい“釈義”の能力はなにひとつ持ち合わせていない。


 それではどの場所に“釈義”を用いているのかと言うと――、

「今この部屋いるのはおれだけだから、イヴらしく話さなくてもいいよ。母さん」

 三善はそう言い、端末を一旦テーブルの上に置いた。「先に身体の調子を見るから、しばらく量子の海で遊んでいるといい」


 かつて三善が科学研へ配属になった日。

 ジェイから研修内容を聞かされたとき、三善はひとつ提案したことがあった。


 ――『白髪の聖女』の身代わりでなく、本当に『白髪の聖女』の器にしてはどうか。そのために『釈義』を使いたい。


 三善の胸の内で、閉架十三階でひとり取り残されたままの『白髪の聖女』、姫良真夜の存在がずっと引っかかっていた。当時の大司教・ヨハネスにより死ぬに死ねなくなったその身体。そしてそれはいつ来るかも分からない三善のためにのだと、幼い三善でもすぐに想像が付くことだった。


 だからこそ、三善はジェイへ交渉したのだ。彼女に対する仕打ちは決して許されたものではないが、だからといってそのままにしておくこともできない。このときの三善ができることはほとんどないということも自覚したうえで、敢えてこのように提案してみたのである。


 それから色々なことがあって、ようやく彼女を地下から救い出した日のことを三善はとてもよく覚えている。

 あの日の彼女は、今その身を沈める端末――量子コンピュータにその意識と行動基盤を乗せ換えたとき、このように言い放った。


「『あなたはちゃんと迎えに来てくれたのね』」


 イヴの優しい声が三善のヘッドセットに流れる。

 む、と三善はイヴの身体を触る手を止め、その言葉の意味をじっくりと思案する。ややあって、三善は素直に尋ねた。


「どうした。昔の言葉を呟くなんてあなたらしくない」


 くすくすと笑うイヴの声がして、それから彼女はゆっくりと噛みしめるように言う。


「だって今日は、あなたが迎えに来てくれた日だもの。忘れるはずがないわ」


 そうか、と三善は短く呟き、それからイヴの身体をソファへ横たえた。端末へ向き直ると、テーブルの上に乗せていたオレンジ色のUSBメモリを挿入する。


「……母さん。おれ、あのひとに会ったよ」

 今さら言うことではないけれど、と三善は囁くような声色で言う。「あなたの言う通りにしたんだ。だけど、よく分からなかった。なあ、あなたはどうしてあのひとの言う通りにしたんだ」


 あれはどう考えてもあなたを利用しただけだろう、と三善は淡々と言葉を紡ぐ。そんな言葉を、イヴは無言のまま聞いていた。

 どれくらい沈黙が続いただろう。イブが突然このように言った。


「ひとを好きになるのに理由が必要かしら」

「……、ああ、ええと。なんかごめん、野暮な質問をした」


 たった一言だけ、しかし全力でのろけられたことに対し三善はつい謝罪の言葉を述べる。どうにも彼女はずれているというか、妙に達観しているというか、色々なことを全て割り切っているというか。大体にして彼らは婚姻も性交も許されない立場にあったろうに。その結果が今この場にいるシリキウスなのだから、この世はなかなかに難しい。


 ねえ、とイヴが話しかける。


「今なら『あの領域』、見せてあげてもいいわ。それを見れば、想像力の足りないあなたでも少しは答えが分かるでしょう」


 イヴの記憶領域には、一か所だけ、制作者である科学研『A-P』チームでも解析できない領域を設けていた。人間誰しも隠し事のひとつやふたつあるものだ。「彼女にもプライバシーがあるだろう」という考えから、イヴ自身が誰にも知られたくないことを格納しておく場所として三善が用意したのである。

 彼女はその領域を見てもいいと言っているのだ。

 三善は少し考え、首を横に振る。


「いや、いいよ。それはあなたの大事なものだ。本当に必要になったときに見せて」


 そう、とイヴが返したのを見計らい、三善は別窓でプロンプトを立ち上げる。


「さて、パッチを当てるから少しだけ大人しくしていてくれ。適用後はリブートもするから、おれがいいって言うまでいつもの場所にいてもらえると助かる」

「なにをするの?」


 その問いに、三善は穏やかな口調で答えた。


「なに、ちょっとした仕込みを入れるだけだ。あなたは何も気にしなくていい」

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