第二章 (3) 真昼さん

 翌日。


 例の科学研三人衆が医務室を陣取り、帝都をひどく困惑させていた。

 箱館支部の科学研には充分なスペースがなく、釈義調査に関する作業を行うのが困難だった。釈義の検査は本来危険を伴うもの。あらゆる可能性を考慮し、彼らはここが一番安全だという結論に至ったのである。


 ――それはともかく、どうしよう。


 妙にがたいのいい男二人――ジョンとアンデレである――に左右をがっちり固められ、身動きがとれなくなった橘である。その姿はあたかも捕らえられた宇宙人のようだ。自虐に走る程度には思考が現実逃避し始めている橘は、ぷるぷると震えながら右隣りへ目を向ける。


「もう逃げるなよ、黒にゃんこ」


 ジョンの超低音ヴォイスが、恐怖感をさらに倍増させた。

 数分前、不穏な気配を察知し彼らから逃げようとしたのがいけなかっただろうか。いつもならなんだかんだで助け舟を出してくれる三善が不在だったせいで、より面倒なことになりつつあった。


 この際誰でもいい。この状況をどうにかしてくれるのであれば。

 橘は帝都に助けを乞う目線を送ったが、「ごめんね?」と笑顔で返されてしまった。そう、この場所には味方などいないのだ。


「別に取って食ったりしねぇよ」

「そうそう。僕たちの知的好奇心を満たしてくれれば、それでいいの」


 アンデレがいつになく張りきった口調で言った。その『知的好奇心』という言い草がまた不信感を募らせる。

 思わず涙目になってしまった橘を、少し離れたところからユズが首をかしげながら見つめていた。

 そのとき、ようやくジェイが医務室に姿を現した。


「お待たせー。おっ、なんだか宇宙人みたいだね、タチバナくん」


 あっけらかんとジェイが言うものだから、橘は思わず「もういい加減にしてくださいよ……」と情けない声を上げてしまった。


「もう、このにゃんこはすっかりビビっちゃってさぁ。たかが採血なのに。やっぱり猊下を呼んだ方がいいんじゃないの」


 アンデレがまったりとした声色のまま、さりげなく三善をこの場に連れてくるように促している。だが、そんな希望の光をジェイはいとも簡単に断ち切った。


「猊下はイヴと中だからパス。あの二人は親子だからね、たまには仲良くさせてやりなよ」


 会話でなくという表現が少し妙だと思ったが、そんなことよりも。


 ――何でこんなタイミングで……。


 がっくりと肩を落としたまま、橘は死んだ魚のような目を床に向けている。


「さて、タチバナくん。昨日言った通りだけど、君の釈義をちゃんと調べさせてね」

 ジェイが彼の前にしゃがみこみ、うなだれる橘の顔を覗き込んだ。「いいかい、ボクのところで検査しないと、君はプロフェットになれないんだよ」


 嘘だ、本当は知的好奇心を満たしたいがための行動に違いない。

 橘の心の声にいち早く反応したのは、このやりとりを横でずっと見守っていた帝都だった。


「ブラザー・橘。彼女の言うことは本当だ。修行に入る前に、プロフェットは必ず検査を受ける必要がある。教皇庁による認可が下りなければ、君は公にその能力を行使することはできないんだよ」

「……本当ですか?」


 じとりとした目線を向けると、帝都は優しく頷いた。彼がそういう類の嘘をつくことはまずないということを橘はよく知っている。彼がそうだと言うのであれば、そうなのだろう。

 分かりました、と橘が唇を動かすと、その声を合図に実に楽しそうにアンデレがゴムチューブを取り出してきた。


「まずは採血だ。君、注射苦手だろう。そこのベッドに横になるといい。楽な体勢でやろう」


 途中で失神されても困るからね、とアンデレが珍しくまともなことを言った。

 ジェイも短く頷き、準備を始める彼の横で最終確認をすべくカルテを開く。そしてふむ、と短く唸り声を上げた。


「ええと、タチバナ君。ちょっといいかな」

 はい、と橘が答える。「君のご両親についてなんだけど……、お母様のほうにお姉さんがいる、とか。そういう話を聞いたことはある?」


 橘はきょとんとして、思わず首を傾げる。

 かつて土岐野雨がホセに説明した通りとなるが、土岐野雨・橘の二人は物心つく前から叔母夫婦のもとで暮らしており、本当の両親については詳しく知らない。幼少期の橘が叔母へ両親について尋ねたことがあったが、いつも適当にはぐらかされていたことを思い出す。


「いや、特には……ごめんなさい」


 そうか、とジェイは頷いた。


「君の叔母様と同じ『真昼まひるさん』っていう名前の人が知り合いにいるから、もしかしてと思ったんだけど……。うん、ありがとう」


 橘が簡易ベッドに身体を横たえると、アンデレが橘の左腕をゴムチューブで結ぶ。注射針が皮膚を貫くまで、あと数分。

 とりあえず橘は、一刻も早くこの時が過ぎ去ってしまえばいいのに、と考えていた。

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