第二章 (2) 私に神がついていなくても
しゅんとしたまま三善がホセの部屋を出ていった。
ホセはその背中をしばらく見送ったのち、机上に置きっぱなしになっていた携帯電話を取った。連絡帳からとある番号を探し出すと、通話ボタンを押す。
険しい表情のままそれを耳に当てると、数回のコールののち電話が繋がった。
『はい』
「私です、今話しても大丈夫ですか」
携帯の向こうで、彼――ヨハンが「ちょっと待て」とホセの問いを制止する。一分ほど無音状態が続き、遠くの方で戸が閉まる音がした。
『待たせた。申請書類のことだろ』
ヨハンが返すと、ホセはその言葉を否定する。
「いえ。それもありますが、ちょっと聞きたいことがありまして。今は――その様子ですと、トマスですか。ちょうどいいのでそのままでいてください」
その言葉尻になにかを感じ取ったらしいヨハンは、静かに嘆息を洩らした。これからホセが何を聞こうとしているのか、おおよその見当がついているとでも言いたげな反応である。
『どうせ坊ちゃんが失言したんだろ。いいよ、聞こう』
ええ、と生返事をするホセの目線は、今も雪降る空に向けられたままだ。重たい雪はとうとう本降りとなり、地上を真っ白に染め上げてゆく。
――その光景に、彼は別のものを重ねていた。
「あなたって人は、どうしてあんなことを猊下に吹きこんだんですか。彼の立場がこれ以上不利になってしまっては元も子もないでしょう」
ため息。思わず眉間に手を当て、ホセは苦しげに呻いている。
先程の会話がよほど堪えたのだろう。へこんでいるのは三善だけではなく、当事者である彼も同じだった。
何が、という細かい説明は彼らの間には不要だ。ヨハンは電話の向こうで暫し逡巡していたが、ややあってのろのろと口を開く。
『どうしてと言われても。坊ちゃんの行動理念くらい、お前は把握しているだろ。あいつは今や自己犠牲の塊で、それ以外に動くつもりなどないじゃないか』
いいか、とヨハンは続ける。『坊ちゃんは、自分が無条件に信じてきた『正義』ってやつがいよいよ信じられなくなっている。だから外を知りたいと言った猊下に、俺はヒントをくれてやったまでだ』
「そうだとしても、あの子は元より“大聖教”以外に居場所がありません。今さら彼にそんなリスクを背負わせるだなんて、」
『そうなるように仕向けたのは、どこのどいつだ』
はっとして、ホセは身を硬くした。アイボリーの瞳が動揺に震えている。――目で見なくても分かる。ヨハンは嘲笑うかのように口角を吊り上げ、さらに追い打ちをかけた。
『紛れもないあんただろうが。さも自分の信じるものが一番正しいと言わんばかりに押し付けて。純粋な猊下はそれを信じて、莫迦正直に突き進んで、いよいよ一番上まで来ちまったんだぞ。もっと言ってやろうか。おまえは長年耳触りのいい言葉だけ与え続け、あとは何もしてやらなかった。他のことは全部ケファ・ストルメントに丸投げしていたんだから当然だろうが。だから猊下は疑問に思い始めたんだ。これ以上猊下の首を絞めるな。いい加減分かれよ、あんたも莫迦じゃないんだから』
それとも、とヨハンは勢いに任せ続ける。『俺の言葉は聞くに堪えないか。俺で駄目なら、いくらでも『あいつ』に代わってやるよ』
そしてそのまま、彼はじっと口を閉ざした。
二人の間に訪れた、長い沈黙。
ホセは何も言わず、ただ窓の外を見つめている。室内の光が反射して、暗いガラスに己の顔が映り込んでいた。ひどい顔をしている。今にも嗚咽しそうなほど真っ青な顔が、ホセの眼窩を睨みつけていた。
『――そうだよな』
そして、電話の向こうから消えそうなほどか細い声が聞こえてくる。『あれは紛れもなく、俺たちの間違いだ』
声は今までとなんら変わらない。だが、その雰囲気だけは隠せない。今まで乱暴に言葉をぶつけていた男のものとは思えないほど、しんとした落ち着きを見せている。
「ケファ、」
『俺たちはどこから間違えたんだろう。あいつのためになると思ったことが、全部裏目に出ちまった。こんなことなら、洗礼なんか受けさせなければよかったかな』
「それは違う」
ホセが慌てた様子でそれを否定した。「それは絶対に、ない」
『絶対的なものはこの世には存在しない。そう教えてくれたのはあんただろ』
そこまで言うと、ヨハンは一度息をつき口を閉ざす。ホセが口を開くのを待っているかのようにも思えた。
『だから、与えるべきことを与えなかったのは罪だ。俺たちが謝って済むような話ではなく、今後ずっと背負っていくべきこと。俺はそう思う。その証拠に、もう避けられなくなっている。主席枢機卿が――』
そこまで言いかけて、はた、とヨハンは黙りこんだ。「しまった」と言わんばかりに息を飲み、慌てて『今のは忘れてくれ』と言い放つ。そんな彼の言動をホセが見逃すはずがない。
「今、なんと?」
そう言い放ったホセの表情は、まるで怒っているかのようだった。否、焦りや不安もところどころに垣間見える、一言では表現し難い不思議な表情。だが、そんなものを突き付けられても動揺しないのがヨハンだ。
『だめだ』
「私に言えないことなのですか」
『そうだ。言えない』
「今のあなたより私の方ができることが多いはず。それでも言えませんか」
『言ったらお前が殺される。だから言えない』
五年前、自分が無情にも飛行機ごと冬の海に突き落とされた時のように。呆気なく、そして容赦なく。切り捨てられる。それが『誰』なのかは決して言わないけれど。
ヨハンは喉まで出そうになっているその言葉を無理やり胸の内に押し込めた。これも言うべきでない言葉だった。強いて言うなら、これは言っておく必要があるだろう。
――何度も、何度も。
ノイズがかる思考のなか、自分のものではない記憶が蘇る。
――ああそうだ。この男は、目の前で、何度も、何十回も、何百回も、何千回も、一万を超えてもなお、
『死に絶える光景を終わりなく見せられる、こっちの気持ちも少しは考えろ』
失言だった。
失言だと分かっていても、これだけは言うべきだった。ヨハンは口を閉ざし、じっとホセの反応を伺う。
ややあって、ホセがそうか、と誰に言う訳でもない言葉を吐いた。
「私は、もう、殉教しているようなものなんですよ……?」
しかし、ヨハンはそれでも口を開こうとしなかった。もしも今面と向かって彼と対峙していたのなら、じっと互いの瞳を睨めつけた状態が数十分続いていることだろう。そういう頑固さだけは健在なのだ。
最終的にホセが折れた。溜息混じりに固いシングル・ベッドの脇にぽすんと座り込む。未だに納得できず渋い表情を浮かべていたが、今ここでそれを追求してもさほど意味はないと判断したのだろう。
ホセは左手で前髪を掻きあげながら、ぼそりと呟いた。
「あの術は、あなたのために使ったのを最後にしようと思っていたのに」
五年前、ケファ・ストルメントの聖痕が発覚した際に、部屋全体にかけていた『釈義無効化』の能力。端的に言ってしまえば、あれが三善の言っていた『喪神術』の一例である。本来あのような使い方はするべきではないのだが、あの時はそれ以外に方法が見つからなかった。
それ以来、ホセはあの術を使うことはなかったのだ。
「私に神がついていなくても、あなたさえいればそれでよかった」
二人の間に流れる沈黙。五年の空白を埋める沈黙。
窓の外は雪景色。あんなに憧れていた一面の雪野原も、今はその閉鎖性を強調するものでしかなく。
あの日殺し続けたのは、『敵』だったのか。それとも、己の中の『神』か。
『――猊下には教えてやれ』
ヨハンが掠れる声で囁いた。『お前には、“神様”の他に信じたいものがあった。猊下にはそれがない。だから教えてやろう』
二人の殉教者がそっと頷き合う。否、頷かざるを得なかった。
もしも今後、猊下に居場所がなくなってしまったとき、辛い思いをしないように。何らかの拠り所が出来るように。
ホセ、と。そのとき、電話の向こうで彼がその名を呼んだ。
『それが、俺たちが教えられる最後のひとつだ』
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