第二章 (1) 嫌だ、なんて

 それからしばらく橘とリーナに対し明日以降の説明を行った訳だが、その途中で三善は執務室を離れることにした。時計を見遣り、ちょうど今の時間なら――と思ってのことだ。


 三善は一度自室に戻り聖職衣に着替えると、ホセが滞在する部屋を訪れた。できるだけ人目につかぬよう、細心の注意を払いながら。


 ホセの部屋に入ると、部屋の主は簡素なテーブルの前に腰かけ黙々と書類整理を行っている。なにしろ、彼は今回の『塩化現象』の件に加え通常業務もこなさなければいけないのだ。遠隔でできることは本部に置いてきた部下に任せているとは言っていたが、それ以外のものが相当多いということを三善は知っていた。

 気配を消しながら三善が入室したものだから、三善が声をかけるまでホセは顔を上げることがなかった。


「ああ、猊下」

 三善が名を呼ぶと、ホセは万年筆を机の上に置く。「随分こっそりと来たみたいですね。気配がまるでなかった」

「いや、正直あまり人に聞かれたくない話をしに来たから……」


 三善に落ち着きがないことはいつものことだが、今日は一段と落ち着きがない。

ホセのアイボリーの瞳がきらりと光った。


「ほう。まさか結婚でも考えているんですか? あいにくですが、司祭以上の叙階を持つ聖職者は結婚できません。教義を変えるなら話は別ですけれど。むしろ変えてください」

「ただのセクハラだろ、それ」


 渾身のボケも、三善にかかっては余計なお世話でしかない。呆れを通り越し憐れみを込めた瞳をホセに向けると、彼もつい苦笑している。自分で言い出したことにも関わらず、だ。


「いや、だって。こういう有事の時の話といったら、大体これじゃないですか。私はようやく娘ができるのかと思って、非常にわくわくそわそわしながら待っていたんですよ」

「そういうのはもっと落ち着いてから!」

「む、相手がいるんですね」


 ――やられた。

 恥ずかしいやら何やらよく分からない感情に苛まれつつ、三善は眉間に指を当てた。何度も考えたことではあるが、この狸親父には一生かかっても勝てる気がしない。


「この莫迦。莫迦親父……」


 悔しさのあまり捨て台詞を吐くと、勝ち誇った様子でホセは胸を張る。


「いつの時代も親父は莫迦なもんです」


 ところで用件はなんだ、とホセが尋ねたので、三善ははっと目を見開いた。この間の抜けた会話ですっかり脱力してしまい、本題のことをすっかり忘れかけていたのである。


 三善は居住まいを正し――きちんと床に座った。下手に出るときはこれくらいするものだ、と何となく思い込んでいる三善である――、何度か深呼吸を繰り返す。そしてようやく口を開いた。


「あのさ、教えてほしいことがあるんだ」

「それは私じゃないと駄目なんですか」

「今のところあんたしか思いつかないから」


 ほう、とホセは首を傾げた。


「……おれに、『喪神術』を教えてくれ」


 三善の言葉に、ホセは珍しく真剣な表情を浮かべた。ホセはじっと思案し、それからのろのろと口を開く。


「誰の入れ知恵ですか? それ」


 そして苦笑しながら肩を竦めて見せた。一瞬動揺した素振りを見せたが、それもほんの一瞬の出来事で。今はもういつも通りの穏やかな表情へと戻っている。


「そもそも、神を喪うなどというのは教皇にあるまじき発言ではないですか。以後慎みなさい」

「――トマスから、聞いたんだ」


 そんなホセの誤魔化し方に、思うところがあった。本当に触れてほしくない内容を口走ると、彼は必ず優しい口調で叱る。今回も決して例外でなく、そんな雰囲気を匂わせていた。ここで引き下がる方が無難だったのかもしれない。だが、三善は敢えてその道を選ばなかった。怒られる。確実に怒鳴られるということは、頭の中でなんとなく理解していた。

 その証拠に、彼は三善の発したトマスの名にホセが反応した。敢えて効果音を当てるなら、何かがひび割れるような音だろうか。

 今のホセの表情は完全に引きつっている。


「トマスというのは……あなたまさか、」

「今回の計画でどうしても必要になった、と言っても駄目か。こんなこと、あんたじゃなきゃ頼めねぇよ……!」


 三善の言葉を遮るように、ホセが唐突に立ち上がった。そして、口を閉ざしたまま私物のパソコンを開き、何か入力し始めた。キーボードを叩く単調な音だけが耳に入る。

 てっきり三善は無視されたのだと思った。


 ――ならば、折れるまでここにいてやろうじゃねぇの!


 根性だけなら自信がある三善は、ふてくされた様子で一度立ち上がり、ソファに座りこむ。こうしていれば、きっと向こうは折れてくれる。なんだかんだ言って彼は息子に甘いのだ。


「猊下」


 ふと、ホセが三善を呼んだ。


「なによ」

「端的に言います。自分の身を自分で守れますか? それができるなら教えます」


 端的と表現したが、本当に端的すぎて三善はその真意を読み取ることができなかった。一体なにが言いたいんだ、と首を傾げると、ホセは長くため息をついた。呆れと言っても過言ではない。


「ちょっと、こっちに来てください」


 彼の手招きに、三善はきょとんとしながらホセの横までやってきた。ホセが指したパソコンのモニタには、三善の知らない言語が羅列されている。図面も何一つ存在しないその画面に、三善は「何だこれ」と首を傾げるばかりだ。

 あなたってひとは、とホセが嘆息する。


「危機管理能力というものを多少は身につけた方がよろしいかと。一応、曲がりなりにもトップに立つ人間なのですから」


 とりあえず貶されていることは分かった。思わずむっとした表情を浮かべた三善だったが、すぐにそれは教えを乞う者の態度ではないと判断した。怒りを無理やり抑え、これは一体何なのかを尋ねた。


「枢機卿の名簿です」


 ぴたりと、三善の動きが止まった。


「これ、全部?」

「ええ。本来これは枢機卿団のごく一部にしか閲覧権限がないものですので、内密にお願いしますね」


 右端のスクロール・バーがやたら小さいのだが。とはいえ、大聖教が世界規模の信者を有する大宗教だということを踏まえると、この人数は少ない方かもしれない。単なる確率の問題だけならば、彼らに出くわすことなど一生のうちにあるかないかだ。あいにく、三善は既に二人遭遇しているけれど。


「いいですか、あなたが知ろうとしている『喪神術』は、彼ら枢機卿が内内に引き継いだ秘術です。表向きは『釈義』と真逆のベクトルの力を有する能力ですが、本当はそうじゃない。大聖教における異端者を戒めるための能力――猊下や主席枢機卿の『楔』と同列の意味を持つ」


 私は単なる例外ですよ、と言いながらホセはディスプレイを右手で叩いた。


「ここにある名前は、エクレシア勤務の聖職者のうち約一パーセント程度。知らないとは言わせません。枢機卿所属の聖職者・とりわけ検邪聖省勤務の聖職者は決して少なくない。間違いなく彼ら全員を敵に回すことになります」


 そもそも厄介な人物が一番近くにいるでしょう、とホセは言う。ロンのことだ。確かに、彼は今のところ『条件付き』で見逃しているので、敵か味方かと問われれば間違いなく敵である。

 思わず三善はぐっと息を飲み、眉間に皺を寄せた。


「そもそも、あなたの教皇就任の件には未だ納得していない者も大勢いる。あなたはあなたが思うよりもずっと多くの敵に囲まれているのです。『喪神術』なんか習得してごらんなさい。足元すくわれますよ」

「それでも」

 三善は間髪いれず切り返す。「どうしても守りたい人がいる。手段が他にないんだ。おれはどうなっても構わない」

「あなたが良くても、私が嫌だ!」


 ホセの怒号にも似た一言が、三善の身体をびくつかせた。驚いてしまい、次の言葉が紡ぎ出せないでいる。

 アイボリーの瞳が、三善の紅と交わる。

 嫌だ、と来るとは、さすがの三善も思っていなかった。彼の脳内シミュレーションでは、「あなたが良くても、私が困ります」だった。そう言われた場合の切り返しならいくらでも思いつくのだが、彼はそれらのどれにも当てはまらなかった。いかなる時でも私情を挟まない。これが彼の特徴だと勝手に思い込んでいたのだ。

 困惑したままの三善に、ホセははっとして、すぐに謝罪した。


「嫌だ、なんて……子供の駄々みたいで、みっともないですね。すみません猊下」


 そんな、と三善が首を横に振ると、ホセは苦笑しながら彼の肩に手を置く。


「理解してくれるまで何度でも言います。『喪神術』は、そのままの意味で『神との繋がりを失うすべ』です。意味性を重んじる我ら大聖教の教えから大きく逸脱するものだということを、あなたは知らなければならない。賢いあなたなら、分かってくれますよね……?」


 彼の泣きそうな表情に、三善はきゅっと口を結んだ。彼にとって、この話は嫌なものでしかなかった。いかに自分の考えが甘かったか、嫌でも思い知らされる。彼がこんなにも悲しげな表情を浮かべるなんて。――あの飛行機事故以来、彼はこんな表情を誰にも見せたことがなかったはずなのに。


 おれが莫迦だった。そう思わざるを得なかった。


「……ごめん、なさい」


 自然とこぼれ落ちる言葉。ホセは返事の代わりに、三善の頭に手を置いた。


「あなたは、優しい子だ」


 そんな優しい言葉が、今の三善には痛々しく感じられた。

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