第一章 (8) あなたにしか頼めない

 そこで注文していたコーヒーが運ばれてきたので、彼らは一旦タブレットを下げた。

 湯気が立ち上るコーヒーは仄かに酸味のある香りを含んでいた。三善はカップの把手に指をかけながら、慶馬に続きを促す。


「簡単に言うと、先先代の教皇が『塩』を恐れたからですね」


 慶馬も冷めないうちにとコーヒーに口をつけたものの、せっかくの高級ブランドのカップを楽しむ余裕もなく話を続ける。橘はそんな彼の様子を見て、おや、と思う。

 何となくだが、ほんの少しだけ違和感があった。否、慶馬はいつも通り冷静な口ぶりだし――今日は雪の代弁者ということで、いつもよりかなり話しているけれど――、表情にも不自然なところなどひとつもない。しかし、橘はどこか引っかかるものを感じていた。


「『塩化』現象の正確なメカニズムはここ数年の間に解明されたことですが、箱館ではどうやら以前から口伝されていたようです。どうも大聖教に縁のある場所では『塩』が発生することがある、と。一度塩が発生した土地で農業を続けるのは難しい。正確な発生条件が分からずとも、どうやら『釈義』に関連がありそうだとアタリをつけた先先代の教皇が意図的にプロフェットの配置を避けたようです」

「ええ、それが妥当でしょうね」


 ところが、現在の箱館市街地は『釈義』が充満している。何度も言うようだが、箱館支部に常駐するプロフェットは三善とリーナの二人だけである。広い箱館地区を二人だけでカバーするには骨が折れる、ということで、この二年間三善は各地の教会を駆け回っていた。そこで三善が行っていたのは『釈義』の拡散だ。『聖火』を焚いて回り、普段から『釈義』の残滓を街中に残すことで、“七つの大罪”が必要以上の能力を発揮しないようにしていた。


 三善が配属された当初は夜間になると“七つの大罪”の低階層がうろつくため、人々は安心して暮らすことができなかった。三善が自身の『釈義』を箱館エリアに文字通りばらまくことで、箱館市は平穏を保つことができるようになったのだ。


 しかしながら、『塩化』現象というひとつの側面からこの状況を鑑みると、今の箱館はかなり危険な状況となっている。


「少しはこの土地の歴史を学んでおくほうがよかったな。安易に『釈義』をばらまくんじゃなかった」


 ロンやリーナが何度本部にプロフェットの配置を進言しても叶わなかったのも、この状況を考えると納得できる。そもそも立地条件からして箱館は『釈義』を受け入れるべき土地ではなかったのだ。


 しまった、という三善の顔を橘は久しぶりに見た。

 想像以上にショックを受けている三善をよそに、慶馬は「しかし」と言葉を紡ぎ出す。


「まだ手遅れではない」

「そう、ですね。幸い『塩化』を抑止する方法も大方固まりつつある。しかし、人手が足りない。本当に、驚くほど人手が足りないのです」


 三善の構想では、少なくとも『箱館山』『裏箱館山』の四か所に派遣できるくらいの人数が必要なのだと言った。


「やはりそこがネックですね……」


 結局話は振り出しに戻り、思わず長くため息をついてしまう三善と橘である。しかし、慶馬の表情は険しいままだ。


「美袋さん?」


 三善が尋ねた。彼はまだ、コーヒーの水面を見つめたまま黙りこくっているだけだ。じっと、何かに迷いがあるかのように。しばらくそれを眺めていた三善は、突然手にしていたカップを置いた。


「――あなたの望みは何です?」


 その一言に、慶馬がどきりとしたのは確かだ。目を見開いたまま、肩が僅かに震えている。いつもの彼とは思えないくらいに動揺していた。橘ですら気がついていた違和感に、三善は最初から気がついていたらしい。

 ただ静かに諭すような口調で、三善は言う。


「今日ブラザー・ユキが現れなかったことで、何となく気づいていました。もうブラザーは視えないのですね」


 え、と橘が声を洩らした。視えないとはどういうことだ、以前会ったときは普通に会って話していた。それなのに、と考えるその横で、慶馬が口を開く。


「その通りです。若はもう、両目の視力をほぼ完全に奪われてしまった。『喪失者ルーウィン』の認定を受けるのも、そう遠い話ではないと思います」

「そうか……だからそんな顔してやってきたのですね」


 三善が碇ヶ関で会った際に感じた違和感はそれだったのだ。あの時点で帯刀はほとんど目が見えていなかった。だから部屋にやってきた三善らと目を合わせられなかったのである。

 三善も思わず目を伏せ、じっと考え込んでいるようだった。


 ふいに訪れた沈黙。橘は一体どうすればいいのか分からずに、ただ二人の顔を交互に見比べるしかできなかった。


「――猊下。あなたにお願いがあります」

 その沈黙を破ったのは、慶馬の方だった。「あなたにしか頼めないお願いだ」


「私は医者ではないから、『喪失者ルーウィン』の治療はしかねる。いい医者は知っていますが」

「違う。そうじゃない……違うのです」


 慶馬がその両手で顔を覆い始める。躊躇いと、焦りと、不安と。それらが彼を怯えさせている。不思議な男だと三善は心のどこかで思っていた。

 かつて“憤怒”戦で片腕を失った時ですら、彼は恐がる素振りを見せなかったという。自分のために恐がることはないのだ。


 彼が本当に恐いと思うのは、己の主が。

 いなくなってしまうのではないかと考えた時だ。


「――猊下。俺に、洗礼を受けさせてほしい」

「なに?」


 言葉の意味を問いただそうとしたその時、彼はもう次の言葉を吐き出していた。


「俺を、プロフェットにしてほしい」

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