第一章 (9) 変化

 その一言に、橘はなにも言えずただぽかんと口を開け広げるだけだった。

 慶馬は今、なんと言っただろう。

 ――彼は間違いなく、プロフェットにしてほしいと言った。「洗礼を受けさせてほしい」だけならまだしも。


 それに対し、三善は無表情のままじっと慶馬を見つめていた。なにを言うまでもなく、ただ彼をだ。


「あなた、それがどういう意味か分かっているのですか」


 ようやく発した三善の一言には計り知れない重圧が込められている。怒りも貶しも含まれていない分、その重さが逆に辛かった。

 肝が据わっていると自他ともに認める慶馬でさえ、その一言に一瞬たじろいだのが見て取れた。


「分かっている……つもりです」

 慶馬が声を絞り出す。「後天性釈義を受ける行為は『罪』だ」

「その通りです。わたしもブラザー・ホセも……、あなたの主である帯刀雪も『それ』を保持しています。しかしながら、わたしたちが保有するのは単なる能力ではなく、人から与えられた『罪』そのものです。あなたは決して道を踏み外してはいけない。道を踏み外すのはわたしたちだけで十分です」

「それでも!」


 珍しく彼が声を荒げたことで、三善はぴくりと眉の端を動かした。――彼の言動に興味を持ったということだろう。何故彼がそこにこだわるのか。執着する理由は何なのかを慎重に探ろうとしている。

 慶馬が必死に食い下がる。それを横から見る橘が怯えた瞳を見せた。


「あの力がなければ、あなた方を助けることはできないじゃないか……!」


 彼の言葉に、三善が疑問を投げかけた。


? ブラザー・ユキではなく?」


 ええ、と慶馬がゆっくりと首を動かした。


「あの方だけを救っても意味がないんだ。そう思います」


 それを聞くと、三善はおもむろに手持ちの鞄を漁り始めた。あれでもないこれでもない、としばらく探った後――三善は鞄の中の整理が非常に下手だ――、ようやくポケット版の聖典を取り出した。


「あなたは持っていないでしょう。貸してあげます」


 それを差し出し、三善はにこりと微笑む。真紅の瞳が細められ、それだけで今までの異常なまでの威圧感が削がれてゆく気がした。


「あなたに深いことを尋ねるのは野暮ってやつでしょう。だから私からはなにも聞きません。ただ、私としましては、あなたはまだこちらの道に来るのは早すぎるように思えるのです。……覚悟が決まったら、またいらっしゃい」


 何故とも、どうしてとも、慶馬は言わなかった。ただ、三善から聖典を受け取ったとき、微かにほっとした表情を浮かべたのは確かだ。彼はそれだけ思い詰めていたのだろう。


 慶馬が言いたいことは、三善にはよく分かっていた。

 きっと帯刀が「もし自分が動けなくなった時、三善の力になってやれ」とでも言ったのだ。その一言から、このような答えを導き出すこの男は正直面白いと思った。昔は帯刀だけ見ていて、それ以外は割とドライだった気もするのだが。


 彼もまた進んでいるのだ。決して止まらずに、時々が無理をしたり方向を間違えたりしないように示してやりながら。そうしているうちに、守ってきたをとりまく他の人物も気になり始めた。ただそれだけのことなのだ。


 この人も随分変わったなぁ。

「ただ、それだけ」。これが意外と、今までの美袋慶馬には足りなかったのかもしれない。三善はそう思うのだった。


***


 帯刀には改めて連絡する旨を伝えると、彼らはそこで別れた。


 時計を見るとまだ時間に余裕があった。このまま帰るのももったいないと思ったのか、三善は大きく伸びをしながら「どこに行こうかな……」と呟いた。


 そんな彼の背中を見つめつつ、橘は白い息を吐き出す。結局、この師匠は肝心なことをなにひとつ言わないのだ。

 俺が来た意味はあるのかなぁ、と思っていると、突然くるりと三善が踵を返した。


「タチバナ。お前さぁ、日本史得意だったよな」


 実に奇妙な質問だった。

 確かに御陵市で高校生をやっていた時、選択科目は日本史だったけれど。しかし何故それを今聞くのだ。今までのやりとりの中にはそんな話は一切なかったはずである。


「え、得意かどうかは別ですが……まぁ、そこそこ」

「よし、ちょっと観光しよう。付き合ってくれ」


 そう言うや否や、三善は戸惑う橘の手を取りずんずんと歩き始めた。

 空は相変わらず曇り空。しかも肌がぴりぴりと痛むくらいに外気は冷え込んでいるというのに、この人はとことん元気である。


 やっとのことで三善の横まで追いつくと、橘はようやく気が付いた。今この人は実に楽しそうに笑っているではないか。


 はっと目を瞠った。

 橘が箱館支部にやってきた頃から考えても、彼が心から楽しそうにしていることはごく僅かである。作り笑いはよく見るが、素に戻るのは片手で数える程度しか見たことがない。


 珍しい、というよりは、ようやく見せた素顔に驚いたというのが正直なところだ。しかし橘はなんとなくそれが嬉しく思えて、ついついにやけてしまった。


「楽しそうですね」


 橘の声に、「そりゃあそうだ」と三善は妙にあっさりと返す。


「おれはもうすぐ勤務三年目になるけど、観光はしたことがないんだ」

「えっ? 一度も?」

「そう、一度も。そこに見える五稜郭タワーとかさぁ、一度昇ってみたかったんだよねぇ。タチバナもこっちに来てから支部の手伝いばかりで、観光してないんじゃないの?」


 確かに箱館にやってきてから遊び歩いたことは一度もない。せいぜい、三善を探し歩いた滞在初日くらいだ。確かにあのときは「あとで赤レンガ倉庫に行ってみよう」だとか、そういうことを考えていた気がするのだけれど。


「観光するという発想自体、すっかり忘れてました」

「だろ? だから、ちょっとだけ見学しよう」


 そう言って笑った三善は、やはり楽しそうである。

 ああもしかして、この人の本当の目的はこっちだったのかもしれない。教皇就任後は特に『護衛』という名の監視がきつくなり、心底面倒だと言いたげな顔もしていたからなおさら。

 そうと決まれば、つかの間の小旅行にとことん付き合おう。そう思う橘だった。

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