第一章 (7) 密会

 妙にでかいくしゃみをした三善が、思わず「誰か噂してんのかな……」とぼやいた。


「風邪ですか」


 橘の問いに、三善は首を横に振る。


「いいえ、そんなつもりはありませんが……」


 それで? と橘が三善を仰いだ。


 橘の目に映るのはどう見てもホセ・カークランド司教である。突然執務室から彼が出てきたので思わず悲鳴を上げたが、彼の「おれだよ、おれ」という一言に橘ははっとする。瞳の色が本物のホセ・カークランドとはまったく異なるものだったからだ。

 炎の色に近い深紅の瞳。こんな目を持つ人物は橘の知る中では一人しかいない。


そんな訳で、ようやく目の前の人物がシリキウスだと理解した橘だった。


 ヨハンがなにかをした結果こうなったそうだが、その現場を見ていないので一体何があったのかは不明である。ただ一言、「釈義をちょっと応用したまでです」と彼が言い張ったので、まあそういうことだろう。『釈義』はこういうこともできるのか、とついつい感心してしまった。


 まだ自分の釈義が一体どういうものなのか分からない橘は、「こういうちょっと面白いものならいいなあ」と考えている。


「今日はどこへ行くおつもりなのです?」


 うん、と三善は首を動かし、やんわりと答えた。


「ちょっと人と会う予定ができたので、市街地まで」


 三善は事前にプリントアウトしてきたらしい地図を橘に手渡した。五稜郭付近の沿革図である。どうやらこのあたりまで行くつもりらしい。


「まあ……ちょっと嫌な予感はするんですが」


 ぽつりと呟いた三善の声。橘が「何か?」と聞き直してきたが、それに対しては首を横に振るだけで、何も言おうとはしなかった。


 箱館支部から五稜郭公園までの道のりは、路線バスで数十分ほど。いつもなら自転車でかっとばすシリキウス師弟だが、あいにく自転車は先日の“憤怒”戦で大破したままになっている。そもそもホセが自転車に乗る姿を想像すると正直かなり微妙なので、二人は黙ってバスに乗り込むことにした。


 そのままバスに揺られること数十分。五稜郭公園入口で降りると、外は思いの外寒かった。湿った雲がやや低い所でべったりと広がっており、いかにもな天気である。

 後から降りてきた橘も、寒いと呟きながら三善の横までやってくる。そして同じように、曇天を仰いではため息をつくのだった。おそらく頭をよぎったのは同じ内容である。

 除雪機を出さなくては、という、たった一言の切実な悩みだ。


「寒すぎです。どこか中に入りませんか」


 橘に本気の顔で言われてしまったものだから、三善も「我慢しろ」の一言も言えずにやんわりと頷くしかできない。こればかりは、今まで住んできたお土地柄というものがあるので仕方がない。むしろここで風邪をひかれても困る。


「御陵市は温暖な地域ですからね。仕方ないか……」


 彼らは五稜郭タワーを横目にしばらく歩き、道路を挟んで向かい側に位置する道立美術館までやってきた。薄茶色の敷石がひかれているエントランスをのんびりと歩くと、美術館の入り口のところで誰かが佇んでいるのが見える。全身黒い出で立ちの、顔見知りの男だ。

 三善がそれに気づき、挨拶代わりに片手を挙げる。


 それに気付いた男――美袋慶馬は、やってきた三善と橘に対し深く頭を下げたのだった。


***


 立ち話をするには些か不便だったこともあり、三人は場所を変えることにした。


今いる場所からはやや遠くなるが「こんな恰好でラーメン屋やファストフード店は逆に目立つだろう(しかも肉類は遠慮したい)」という協議の結果、五稜郭公園近くにあるコーヒー専門店へと足を運ぶ。


 さて、ようやく落ち着いたところで橘が口を開く。


「あの、美袋さん。帯刀さんは……?」


 一緒じゃないのか、という部分は、慶馬自身が首を動かすことで遮った。


「若は置いてきました」


 置いてきた、という言い草に若干の疑問が残るものの、そこを追求するのは勇気が要る。熟考した結果、橘はそれについてなにも言わないでおくことにした。


「猊下。あなたも大変そうで」


 わざわざ顔を変えてくるなんて、と慶馬が言うものだから、三善は一瞬地が出てしまった。微かに笑みを浮かべながら、


「そっくりだろ。……厭ですねぇ、ちょっと上の立場につくと、自由に動き回ることもできやしない。いちいち監視されるのは辛いです。まるで昔に戻ったみたいで」


 それはそうでしょう、と慶馬が頷きながら、鞄から一通の封書を取り出した。


「これを若から預かってきました」

「仕事が早いですね、さすが帯刀さんだ」


 三善は受け取った封書をすぐに開封し、三つ折りにされた便箋を開いた。じっと押し黙りつつ目を滑らせると、ふむ、と小さく唸る。


「簡単に言うと、私がということですね」


 橘がきょとんとして首を傾げたので、三善は受け取った手紙を橘へ見せた。別に見られて困ることは書かれていない。


「これは若の憶測ですけれど」


 慶馬は鞄からタブレットを取り出し、箱館市沿革図を表示させた。


「以前猊下から伺った『塩化』現象発生のメカニズムから、改めて状況を整理しました。箱館市――具体的に言うと、エクレシアにおける管轄という意味での箱館市、ですが。エクレシア箱館支部は『箱館山』を起点とし、『東山』『城岱しろたい高原』『横津岳』までを管理下に置いています」

「『裏箱館山』ですね」


 橘の言葉に、慶馬はひとつ頷いた。


「タチバナ、よく知っていますね。さすがです」

「エクレシアにおける教区の定め方は少し特殊ですが、簡単に言うとその土地が保有する『釈義』の量を基準にしています。かつて一九五三年の町村合併法施行をきっかけに、日本固有の土地区分がかなり大幅に整理されました。箱館市の場合、元々聖所や教会群が他の土地と比べるととても多く、保有できる『釈義』は相当量だったはずですが――」

「それなのに、なぜエクレシアは箱館に『釈義』を持たせなかったか」


 三善が呟いた。

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