第一章 (6) 新と旧

「チビわんこ、起きてるかー、って……」


 開いた扉から顔を覗かせたのはジョンだった。勤務中いつも持ち歩いている手帳の他に分厚い文献を何冊か抱えてきたところから察するに、三善と簡単な打ち合わせをしようとしていたらしい。目当ての人物がいないことが分かると、彼は気まずそうに口を噤んだ。


 そして、彼はようやく執務室にいたヨハンの姿に目を向けた。


「む」


 どきりとして、ヨハンが身をこわばらせる。そもそもヨハンの中身――ケファもトマスも、ジョンと同じ『十二使徒』の一員である。当然彼とは顔見知りにあたる訳で、ヨハンとしては出来る限り接触を避けたい人物だった。とはいえ、この状況で逃げる方が不自然だ。ヨハンはありったけの度胸をかき集め毅然とした態度で臨むこととした。


「――猊下は?」

 ジョンが尋ねる。


「外出するそうだ」


 ヨハンが答えると、ジョンは静かに戸を閉めた。ついでに錠まで落としたものだから、いよいよヨハンの逃げ道は塞がれてしまった。


「……のことは、ホセから事情は聞いている」


 ヨハンは一発殴られることを覚悟し、奥歯を強く噛み締める。ところが、ジョンは思いのほか冷静な素振りでいた。彼が座るソファに向かい合うようにして座り、じっと鋭いまなざしを向ける。


「その感じからすると『あいつ』かな。久しぶり。随分厄介なことをしでかしてくれたな、この大莫迦野郎」


 その言葉を耳にしたヨハンは、微かに笑みをこぼした。


「こっちは命張ってるっつーのに、その言い草はないだろ。ジョン、お前は坊ちゃんを守っているつもりなんだろうが、あれは黙って守られているタマじゃねぇぞ」

「知っているよ、そんなこと。俺が猊下に与えたのは知恵と度胸と愛嬌、それだけだ」

 それにしても、とジョンはため息まじりに言う。「お前が一体何を狙っているのかは知らないが……いや、違った。別にお前だけの話ではないな。猊下もホセもジェームズも、俺の目にはなんだか妙なことを企んでいるようにしか見えない」


 そこらへんどうよ、というジョンの問いに、ヨハンは躊躇なく強い口調で吐き捨てた。


「お前、実は『今、何が起こっているか』気づいているんじゃないか。お前はに比べたら大したことないが、それなりに察しがいいだろ」


 ヨハンの言葉を耳にした刹那、ジョンの表情が微かにこわばる。

 そして長らく口を閉ざしたかと思えば、


「……お前は一体どこまで堕ちたんだ。猊下をどうするつもりだ」

「ほら、お前のずるいところが出た。そういうとき、げーかを盾にしちゃあいけない。ま、どうでもいいが深入りはするなよ、この身体の持ち主のように殺されるだけだからな」

 ヨハンは言う。「ヒントはあげようじゃないか。『一〇〇九三回』、だ。シリキウス猊下はたったこれだけの言葉で真相に到達したぞ。それも十六歳のときに。お前と出会うずっとずっと前の話だ」


 自分の立場を驕るなよ、とヨハンが嗤った。目はまったく笑っていなかったので、なんとも奇妙な表情を浮かべている。


 ジョンは思案顔のまま胸の前で腕組みをした。ふむ、と短く呟くと、彼はのろのろとした口調で尋ねる。その問いは、ジョンにしては抽象的なものだった。


「……ひとつ聞く。因果律を再構築する釈義は現存すると思うか」

「それは俺からは言えないな。よし、ちょっと待っていろ。


 ヨハンは左手を己の顔に当て、そのままぴくりとも動かなくなった。しばらくののち、ジョンはおや、と思う。目の前に座る男の雰囲気が変わったからだ。先ほどまでの気性が激しい雰囲気が一変、しんと落ち着いたものへと変貌する。あまりの奇妙さに、寒気すら覚えるほどだ。


 彼は顔を覆っていた左手をゆっくりと降ろし、同時に銀縁の眼鏡を外した。


「――因果律を再構築する釈義は、広義的に言えば『存在する』。単純な話です。今あるものを崩してから立て直すのではなく、それが発生した時点に遡れば足りる。つまり過程の話に過ぎない。違いますか、ブラザー・ジョン」


 目の前に突きつけられた奇妙な光景に、ジョンは思わず口をあんぐりと開け広げてしまった。


「こりゃあ、驚いた……」


 思わず間抜けな声を漏らすほどに、今のジョンは動揺していた。


「とはいえ、我々大聖教の教えにおいてこの考え方は受け入れ難いでしょう。我々はあくまで『被造物』に過ぎません。世界の始まりも、終わりも、全てを掌握するのは我が神のみ。先ほどの問いかけはその教えを無視するものとなります。――言葉には気を付けていただきたい。仮にもあなたは司教なのですから」


 そうか、なるほど――とジョンはいくつかぶつぶつと言葉を反芻する。

 それからジョンはもう一つ問いかけをした。


「ドクター。ならばこのたびの『塩化』現象――特に御陵市の件を、あなたはどう考えますか」


 ヨハンは僅かに逡巡し、それからこのように返した。


「質問に質問で返すのはルール違反だと思いますが、その意図は?」

「どう考えても辻褄の合わないことが起こっているためです」


 その一言だけで十分だった。ヨハンは目を伏せ、じっと考え事を始める。三十秒ほど、ゆっくり、じっくりと思考を巡らせたのち、


「――私から言わせると、想定内の範囲です」

 とだけ答えた。


 ジョンはぴくりと肩を震わせ、彼の発言の意図を汲もうと微かに眉間に皺を寄せた。ジョンが考え事をしているときはたいていこのような表情を浮かべるのである。


 その仕草は、ヨハンがとてもよく知るものだった。そしてどうしてか、今この場にはいない猊下の姿を連想した。


 ああ、と思う。

 ブラザー・ジョン、とヨハンがその名を呼んだ。


「――おそらく今しか言う機会がないだろうから、今伝えてしまいますね」


 ヨハンは躊躇いがちに、しかしながらはっきりとした口調で言った。


をここまで引き上げてくれてありがとうございます。大変感謝しています。あなたには、感謝しても、しきれない」


「……、ドクター。あの子供は、あなたが目指した理想の姿になれましたか」

 ジョンはそう返した。「あの子供はとても聡い。しかしながら、その知性に溺れることなく、他者の感情の機微を読み、受け止め、多くの慈愛を与えられる子です。その性質は元から持っていたものではなく、一度でも他者から深い愛情を受け取ったことがあるからこそできることだ。それはあなたが残した最大の功績と言っていい」


「もしも彼の人となりが私の功績だと言うのなら、彼の知識の幅を広げたのは紛れもなくあなたの功績でしょう。あなたが与えた知恵と……度胸と、それから愛嬌と」


 ふふ、とヨハンは堪えきれずに小さく笑みをこぼす。先ほどのジョンの発言が思いのほか面白く感じられたらしかった。特に後半のふたつが言い得て妙だ。


「私は」

 ジョンは言う。「私はあの日から、あなたの背を追い続けることになった。今もそうだ。ずっと、あの子供が望む姿を模索し続けている。どう足掻いてもあなたには勝てません。それだけあなたの存在はあの子に多大なる影響を与えていたのです。ドクター、どうかそのことを自覚していただきたい」


「あなたが無理をする必要などないでしょうに。あなたの教えは確実にあの子に根付いていますよ」


 それでも、とジョンは言う。彼にしては珍しい発言だった。彼は元々人間関係をとても重要視する性格だったはずで、関係が損なわれることが明白であれば自身の考えは殺すことも厭わないはずだった。


 そして、今までの彼の発言はその真逆を行く。簡単に言い表すならば、嫉妬と、羨望と。そのどれもが人間関係構築において負のベクトルを向く可能性があった。


 本気でぶつかろうとしているのだ、彼は。ヨハンはじっと押し黙り、ジョンの言葉に耳を傾ける。


「あの子が私の側で眠りにつくとき、ひどく申し訳なく思います。あなたの代わりなどでなく、あなた本人であればよかったろうと。先月ひさしぶりに猊下に会った際、彼は誰にも甘えたくないと仰っていました。そのとき、……どうしても、私では駄目なのではないかと。そう思わざるを得なかった。これがあなただったなら結果は違ったろうに」

「……、眠るのですか? 傍で」


 じっと押し黙っていたヨハンがようやく口を開き、思案顔のまま尋ねた。ジョンはその問いに肯定の意を示す。


「それは……ああ失礼、ちょっと思うところがあって」


 ヨハンが微かに笑ったのを、ジョンは不思議そうな顔で見つめる。


「結論から言うと、杞憂ですね。あいつはよほど信頼している人の側でなければ眠りませんよ。昔色々あったせいで無意識に警戒するようです。大丈夫、言葉にしていないだけで、あなたはちゃんと信頼されていますよ」


 しかも超弩級に、と付け加える。


 ジョンは何も言わなかった。ただ、呆気にとられた表情を浮かべているだけだ。


「とはいえ、あなたがこちら側に踏み込むのは具合がよくない。これは私見ですが、おそらくあの子はあなたが事の真相に辿りつくことをひどく恐れている。あの子はあなたのことを、――散々動き回ったあと、最後に戻る場所として考えていると思います。私があの子に深く関わりすぎたから尚更。……だからどうか、気づかないふりをしてあげてほしい。せめて彼が、自分から相談し始めるまでは」


「あなたにそう言われると、聞かない訳にはいかないか」

 ジョンは首筋をさすり、ばつが悪そうにしている。「わかった。なるべく深入りはしないでおきます」

「はい。そうしてください」


 ブラザー、とヨハンがその名を呼んだ。


「このあと、少しだけ時間をもらえますか」

「構いませんが、どうしました?」

「もしよろしければ、あの子が今日に至るまでどうしていたか聞かせていただけないでしょうか。……私の、単なるわがままで申し訳ないのですが」


 ジョンは「喜んで」と返し、彼に関する記憶の始まりを思い返す。


「まず猊下は――研修初日に寝坊して数時間遅刻しました」

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