第一章 (5) 地に堕ちていくふたり
***
「俺は特殊メイク屋か」
しばらくの後、ブラザー・ヨハン――トマスが愚痴まじりに執務室にやってきた。
その頃には既に休憩を終えていた三善は、カマーベスト姿でゆったりと新聞を読んでいた。ジャケットはソファの背にかけられ、傍らにはいつも持ち歩いている鞄が置いてある。
三善がヨハンの姿を捉えた刹那、僅かに顔を歪めて見せた。
彼と会うのは碇ヶ関の一件以来である。
あの日ホセにハンマーロックをかけられた三善だが、勿論やられっぱなしでいるつもりはなかった。適当な服を着用すると、三善はホセを追うべく慌てて支部を飛び出す。
二人の姿はすぐに見つけることができたが、結論から言うと三善が彼らの前に出ることはなかった。
――あの子が今後心穏やかに過ごせるのなら、私はいくらでも悪魔に身体を売り渡しましょう。
――いいですか、私とあなたは、共犯です。
――共犯なら共犯らしく、堕ちるところまで行くか。
別に盗み聞きするつもりはなかった。三善が知る二人の会話――たとえばただの口喧嘩であれば、躊躇いなく止めに入っただろう。だが、彼らの会話を耳にした三善は思わず躊躇してしまった。
ケファがそれでよいと言うのなら、三善には止める権利などない。何度も言うようだが、どうにも三善を取り巻く人々は自身の人生を他人により台無しにされる傾向にある。そして本件に至っては、三善がケファの人生を台無しにしているという自覚もあった。
もしも今飛び出して泣きつきでもすれば、少しは考え直してくれるかもしれない。しかし、それは本当に彼が望むことだろうか。
そして三善は、地に堕ちていくふたりをいよいよ止めることができなかった。
そんなことがあったので、三善はしばらくヨハンと会わないようにしていたのだ。
ヨハンは三善の微かな表情の変化に気付き、自嘲するように唇の端を吊り上げた。
「坊ちゃん、罪悪感でもあるのかい」
心臓が跳ねた。
三善が言葉に窮していると、ヨハンはまるで子供に言い聞かせるような声色で続ける。
「あれは別にお前のせいじゃないよ。こいつはそれで納得している」
「……、分かっているよ、そんなこと」
三善は絞り出すような声色で返した。「おれは、おれが知らないあなたになっていくのが怖いだけだ」
「同じことをそのままお前に返すぞ。俺は、俺たちは、俺たちが知らないお前になっていくのが心底恐ろしい。お前は気づいていないかもしれないが、お前は最早『変化』という言葉で片付けられないほど変わってしまった。そのことに対して、俺たちは少なからず罪悪感を覚えている」
三善はじっと押し黙り、何かを考えているようなそぶりを見せた。否、無言のままに何かを訴えかけようとしていたのかもしれない。しかしヨハンがその真意を汲み取る前に、三善は静かに彼の真正面へ腰掛けた。
「あなたが言えたことじゃない」
そして三善は冷めた一言を投げかけた。「さっさと始めよう」
何を始めたかと思えば、トマスの釈義である『顔替え』を施してもらうつもりでいたのだ。ケファ自身は釈義を失ったままだが、トマスが自身の釈義を持ち合わせた状態で“弾冠”を行ったため、微量であれば釈義を行使できると聞いている。もちろん本来は釈義生成の機構を喪失した身体なので、無理できないことには違いないのだが。
「顔の希望は?」
ヨハンの問いに、三善はさっぱりとした口調で答えた。
「別に誰でもいい。そうだな……、ホセあたりなら、顔の造形を思い出せるか?」
「了解」
そう言うや否や、ヨハンの両手に白金の電流が走る。
「いくぞ」
そしてそのプラズマを三善の顔面めがけてぶち当てた。塩が爆ぜた音が耳に残る。左から、右へ。白磁のような肌の色が徐々に褐色がかってゆく。灰色の髪は、黒く、鴉の濡れ羽根のような状態へ。輪郭はより骨ばったものへ。
次に瞳を開けた時には、彼の顔は既に『姫良三善』ではなくなっていた。ぱちぱちと瞬きしつつ目の前に座るヨハンを見遣ると、ヨハンはそっと手鏡を渡してくれた。
「目の色はさすがに変えられないから、そこはコンタクトかなにかで誤魔化してくれる」
鏡を見つめ、「おお、ホセだ」と嬉しそうにしているところを見ると、三善本人もここまで完璧にしてくれるとは思っていなかったらしい。
「制限時間は十二時間だ。一体なにをしに行くのかは知らないが、無茶はするなよ。教皇が無防備にその辺をうろちょろされると迷惑だからな」
「うろちょろはしないよ。それに、タチバナも連れていくから安心してくれ」
三善は手にしていた鏡をソファの上に置くと、ソファにかけていたジャケットに袖を通した。
「もし時間になっても帰ってこないようだったら迎えを寄越してほしい。場所は……ええと。赤レンガ倉庫の前でいいか」
「赤レンガのどれだよ。いっぱいあるだろうが」
「おれの外見って目立つでしょ。見つけてよ」
本当に困った奴だ、とヨハンは思った。こういうところは、いま彼が化けているホセ・カークランドにそっくりだ。どうしてこう、微妙なところが似てしまったのだろう。
親子ってそういうもんかねぇ、と呟いているうちに、三善は鞄をひっ掴み執務室を後にした。ヨハンが目線だけでその背中を追うと、扉の前で待機していた橘が「ぎゃっ!」と悲鳴を上げている。
「やっぱりさぁ、坊ちゃん。あんたやることが突拍子なさすぎ」
思わず呟いたところで、再び扉が開いた。
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