第一章 (4) お忍び作戦

「おはようございます」


 橘が声をかけると、案の定三善はまだ寝ていた。――否、敢えてこの状況にコメントをつけるとしたら、「あれこれ考えているうちに夜明けになってしまったのでちょっと休ませろ」といった感じだ。


 もう既に見慣れた光景なので、橘は奥のクローゼットから毛布を引っ張り出してきて三善の肩に掛けてやった。その感触に三善は一瞬身じろぎするも、数秒後、彼はふたたび夢の世界に旅立って行ってしまった。


 机の上に山のように積まれている書類の数々は、以前まで枢機卿が請け負っていたものだと聞く。戴冠式のあとに引き継ぎを行い、必要なものは全て持ち帰ったのだそうだ。


 ちらりと盗み見ると、橘は不思議そうに首を傾げた。てっきり書類整理をしていたのだと思ったが、よくよく見るとどうも違うらしい。書類の上に重ねられているのはたくさんの文字が書き連ねられた便箋だ。そして傍らには英和辞典が広げっぱなしの状態で置いてある。


「あ、おはよー。タチバナ」


 はて、と思っていると、執務室の戸を開けロンがやってきた。その後ろからイヴがやってきて、ちらりと三善の様子を確認する。彼がまだ寝ているということに気が付くと、彼女はそっと給湯室へ向かって行った。


「あ、おはようございます、ブラザー。イヴも」


 うん、とロンが小さく頷くと、三善の机の上――いつも未処理書類を溜めている左側の箱に昨夜仕上げた分の書類を重ねておいた。あとは教皇PPのサインが入れば返送可能な状態である。


「相変わらずうちのボスは無理しちゃって。別に手書きでなくてもいいのに」


 ロンが思わず苦笑すると、「ところで」と橘が顔を上げた。


「センセはいったい何を書いているんです?」


 その問いに、ロンはきょとんとした。知らないの、と短く尋ねたので、橘は大きく頷いて見せる。

 その反応にロンは思うところがあったらしい。ははあなるほど、と小さく呟くと、橘へ向けてこう返した。


「インターネット先生に聞くといいよ」

「えっ?」

「一番分かりやすい答えが書いてある」


 橘の頭上に大きくクエスチョン・マークが浮かぶ。とりあえず言われたとおりに携帯を開きブラウザを立ち上げたところで、ようやく三善が目を覚ました。ゆっくりと上体を起こすと、肉まんが余裕で二個入りそうなくらい大きな口で欠伸をする。


「もうそんな時間か。おはよ。お前ら、寝かせたいんだか起こしたいんだかはっきりしなさい。耳元でうるさいよ」

「あ、すみません」


 しかし悪びれずに橘が切り返すので、まあいいけど、と三善が息をつく。そして左手で頬杖をついた。紅玉の瞳は今、眠たげにじっとりと座っている。

 そうしているうちにイヴが戻ってきて、三善の前にブラック・コーヒーを置いた。


「ああ、ありがとう」

「砂糖は必要ですか」

「砂糖よりミルクが欲しい。なんか胃の調子が悪くてさー……」


 そんなことを言いながら、三善は机の上に積んでいた封筒の束を手に取った。素早く枚数を確認すると、角が揃うようにきっちりとまとめ直す。


「イヴ、これ全部郵便に出しておいて。おつかいだ、できるだろ」


 はい、と呼ばれたイヴが束になった封書を受け取ると、その分厚さに思わず薄氷色の瞳を大きく見開いて見せた。


「……これはまた、いつになく凄まじい量ですね」

「送料は経費で落ちるかな」

「ええ、それは問題ありません。領収書をもらえばいいのでしょう?」

「ああ、その通りだ。頼んだよ」


 イヴが踵を返し執務室を出たのとほぼ同時に、携帯を見つめていた橘が思わず声を洩らした。橘はまったく知らなかったのだが、三善が今イヴに渡した『手紙』とやらはどうやら世界規模で相当な話題になっていたらしいのだ。

 ヨハネスが在位中の頃から教皇宛に手紙が届くことはあった。その点については特段驚かれることではないのだが、人々が驚いたのはそのだ。どう考えてもひとりの人間が捌ききれないような数を読み、手書きで返信しているように見受けられる。一部では代筆させているのではないかと言われていたのだが、最近になりその筆跡が「同一人物のものである」と認められたことで世界中が震撼した。

 そんな訳で、あの封書の束は割とホットな話題の渦中にある代物だったのだ。


 三善から言わせれば「そんなことを調べるほど世の皆々様は暇なんだろうか。実に平和なものだな……」とのことだが。


「ところでセンセ、いつ寝ているんですか」

「……、悲しくなるから聞かないで」


 三善の回答に、一同ため息をつくしかなかった。

 さて、と三善はイヴに淹れてもらったコーヒーを一気飲みし、席を立った。


「ちょっとシャワー浴びてくる。そのあとは出かけるけど……ああそうだ、タチバナ。一緒に来てくれないか」

「え、俺ですか」

「お前以外にタチバナはいないんだけど」


 でも、と橘が言葉を濁した。教皇が今までのようにひょいひょいと外出できるはずがない。大きな騒ぎになることは目に見えて分かっているはずだ。

 助けを求めて橘がロンへ目を向けると、彼はちょうど内線を回しているところだった。そして何かをぼそぼそと話したのち、三善へ目を向ける。


「二時間後にブラザー・ヨハンが来所します。ゆっくり準備してくれる?」

「ああ。待っている、と伝えてくれ」


 そして、三善はにっこりと微笑んだのだった。

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