第五章 (7) 本州十二区、碇ヶ関にて

 本州十二区、碇ヶ関。


 東北地方に位置するこの場所は、天正十四年から明治四年もの間津軽藩の関所が設けられたことで有名である。そんなことを橘が言っていたので、三善は思わず首を傾げながら尋ねた。


「天正十四年っていつ?」

「一五八六年のことです。徳川家康が豊臣秀吉の臣下となった年ですね」


 三善は微かに眉間に皺を寄せ、それから普段使わない知識を振り絞って答える。


「バートリ・イシュトヴァーンが逝去した年……?」

「……、センセ、ちなみに歴史の勉強は」

「教会史を少々。それと世界史をかじったくらいかな。一応高卒認定は持っているけど、ほとんど忘れちゃった」


 ちなみにバートリ・イシュトヴァーンとはトランシルヴァニア公国の統治者のことだ。

 それはともかく、三善は橘が意外と日本史に強いらしいということを知り、妙に感心してしまった。それは少なくとも自分にはない要素だ。せっかくなので、今度一緒に箱館市内を歩いてみようと思った三善である。


 このやりとりと目の当たりにしたヨハンは、微かにがっかりした表情を浮かべていたが、それを三善が気づくはずもなかった。


「ああ、そろそろ駅に着くね」


 三善は腕時計に目を落とし、それから車窓越しに流れる景色を見つめた。


 いよいよ碇ヶ関上陸となる。相手が帯刀なのだから、もっと都心に近い場所に居を構えているのかと思いきや、実はそうではなかった。よくよく考えてみると、ここ数年の帯刀はすっかり流暢な標準語を話していたけれど、三善と出会ったばかりの頃はところどころ訛りが目立っていた気がする。


「センセ、忘れ物がないようにお願いしますね」

「お前こそ」


 何故かお互いを牽制し合い、二人は荷物をまとめ始める。

 道中あまりに暇なので、ヨハンはその姿をのんびりと眺めることにした。


 ――つーか、面倒見てる子供と思考レベルが同じってどういうことだよ。司教。


 思わずトマス寄りの思考が脳裏を掠めるくらいに、彼は心底呆れている。


 彼らは本当に大司教に会いに行くつもりでいるのだろうか。遠足か何かと勘違いしてはいないだろうか。

 様々な思いが脳裏を駆け巡る。そういえば、出掛けにロンとリーナが駅まで見送りに来てくれたが、二人とも口を揃えてヨハンに対し「うちの司教をよろしくお願いします。たぶん放っておくと迷子になるので」と言っていたことを思い出した。


 ――ある意味愛されているということにしておこう。


 そういうことにして、ヨハンは席を立った。


***


 三善らが改札から出ると、入り口で慶馬が待機していた。こちらの姿を捉えると、ぎこちない素振りで片手を挙げる。


「ああ、美袋さん」


 三善が微かに頬を緩ませると、慶馬はゆっくりとした口調で声をかけた。


「お疲れ様です。疲れたでしょう、このあたりは乗り換えが難しいから」


 確かにその通りではあるのだが、三善は敢えてコメントせず苦笑して見せた。

 慶馬はトランクを開け、三人分の荷物を載せてやると、後部座席の戸を開ける。


「乗ってください。うちまでは少し遠いので」


 三人が乗り込むと、車はゆっくりと発信する。駅前はぽつぽつと民家が立ち並んでいたが、しばらく走るとそれらは見えなくなった。代わりに見えてきたのは豊かな森林である。


 興味深そうに三善が景色を眺めていると、慶馬が口を開いた。


「このあたりからうちの敷地なんですが、自宅に到着するには当分かかります」

「なるほど、ゆき君がブルジョアなのは本当だった訳だ」


 聞くところによると、帯刀家と美袋家は同じ敷地内に建てられているのだそうだが、少しばかり距離があるため互いの家を行き来するのに車を用いることもあると言う。


「まあ、身を隠すには最適なんですけどね」

「今更だけど、美袋さん家って何をして生計を立てているんですか」

「……、少なくとも、堅気ではないです」


 三善は敢えて聞かなかったことにした。

 そこからさらに車を走らせること数十分、ようやく停車したかと思えば、目の前には立派な日本家屋が鎮座していた。そもそも一般的な住宅というものをあまり見たことのない三善だが、それでもこれは豪邸の類であると認識できるくらいには素晴らしい造りをしている。


 それは橘も同感だったようで、呆けた表情のまま固まっている。ヨハンだけは例外で、豪邸を前にしてもさほど気にも留めず淡々と荷物を車から降ろしていた。


「でかい、なんだこのでかさは……」


 思わず呟いたその時、引き戸が開いた。

 中から現れたのは茶色の巻き髪の女性だった。独特の薄氷色の瞳をこちらへ向けると、それから馴染みの名を呼ぶ。


「慶馬、着く前に連絡しろって言ったでしょ」

「別に昨日のうちから準備していたんだから、今更慌てなくてもいいだろう」

「そういう訳にもいかないの。ったく、……、ああ、あなたが姫良司教ですね」

 はじめまして、と彼女は礼をする。「帯刀秋子と申します。遠いところから御足労いただき、ありがとうございます。愚弟とも親しくしていただいているようで」

「いいえ、こちらこそ大人数で押しかけてしまい申し訳ありません。姫良三善と申します。ええと、こちらがヨハン・シャルベル神父。こちらが土岐野橘です」


 彼女にふたりを紹介すると、秋子は穏やかそうに微笑んで見せた。


 今回は各々に客間を用意してある旨を秋子が説明し、三人を屋敷に通した。帯刀家も美袋家も大所帯のため、共用で使える浴室があるが……、と彼女が言うと、


「……すみません、私は、ちょっと。ので」

「私はまだ腹の傷が完全に癒えた訳ではないので」


 三善とヨハンがすぐさまそれを断った。

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