第五章 (6) 残念なお知らせ

 短い一言にえげつないほどの威圧を込めた。三善がわざわざこのような言い回しをすることなど滅多にない。


 その雰囲気にとうとうヨハンが折れた。彼はものすごく言いにくそうにため息混じりに口を動かす。


「怒らないで聞いてください。そもそも私が箱館を訪れたのは、橘君を保護するためです」

「……、保護?」

「ええ」

 三善の問いに、ヨハンは小さく頷いた。「当初の予定では、橘君を預かるのは私の役目でした。ところが、何故かがあなたに紹介状を渡したものだから、私は公に手を出せなくなったのです」


 一瞬彼の地が見えた気がしたが、それは聞かなかったことにしておいた。言葉尻に微かな苛立ちが見え隠れしていることからも、今のこの状況はかなりの想定外なのだと思い知らされる。


 ヨハンはさらに続けた。


司教ファーザー。あなたのところに橘君を預けた場合、橘君が正しく釈義を身につける確率はゼロに等しい。橘君はその力に呑まれ、身動きが取れなくなります。要するに、これが前回の『終末の日』発生の原因です。それを回避するには、橘君が正しく釈義をコントロールできる状態を作ればよい」

「そこで『あのひと』の登場か」


 はい、とヨハンが頷いた。


 つまり、彼が言いたいことを要約すると以下の通りとなる。

 橘が釈義――『パンドラの匣』を正しくコントロールできるようにするためには、かつての三善と同じことをすればよい。以前の三善が『楔』を用いて大司教と繋がっていたように、三善が橘に対して『楔』を穿つことで橘の能力は三善の支配下に置かれる。


 もちろんそれには危険が伴う。

 三善の現在の釈義は『契約の箱』に由来する。それを橘に近づけることで『パンドラの匣』と影響し合い、最悪の場合『契約の箱』が開く可能性もある。


 諸刃の剣とはまさにこのこと。完全にリスク回避することはできないのだ。


「“怠惰”が言いたいことはおよそこういうことだと思われます。ただ、リスク管理がなっていない現状を鑑みると、やはり私は慎重に判断すべきだと思います」

「……、うん、なんとなく言い分は分かった」

 三善は暫し逡巡し、それからひとつ納得したように頷いて見せた。「何にせよいちかばちかということだ。おれは腹を括ることにする」

「え」

「まずおれは『あのひと』に会い、その釈義を“解析トレース”する」


 ぴたりと帯刀とヨハンの動きが止まった。『あのひと』――大司教ヨハネスの釈義と言えばひとつに決まっている。『時間遡行』だ。


「もちろんこれは万が一の場合の保険だ。本当に使う気はさらさらない。しかし、その後の過程で『契約の箱』が開く瞬間が訪れることになれば」


 三善はその言葉を口にするのを一瞬躊躇した。しかし、どうしても元の状況に戻ることなどできやしないのだ。そのように己を鼓舞し、さらに言葉を続けた。


「――おれが時間を戻す」


 自分が何を言っているのか、分からないはずがなかった。こんな滅茶苦茶なことをしようとするなど、神に対する冒涜でしかない。


 大聖教の時間に対する考え方はあくまで『直線的時間』。人間がそれに挑もうなど烏滸がましいにもほどがある。しかし、すでに『契約の箱』は一〇〇九三回開匣され、そのたびに時を戻されている。


 何度も、とはいかないだろうが、それが少しでも『正解』に近づく行為なのであれば喜んで受け入れよう。

 そうだ、地に堕ちる人間は己一人だけでいいのだ。


 三善は微かに痛む胸をきゅっと押さえ、小さく息を吐き出した。


 その時だった。ヨハンが三善の名を呼んだのは。はっとして三善が顔を上げると、ヨハンは三善の前にそっと何かを差し出した。


「頑固なのは相変わらずですね」

 ヨハンが苦笑している。「これは、が五年前に残したものです。持っていなさい」


 それは小さな鉄製の小箱だった。表面に何か文字が刻まれているが、錆び付いてよく読み取れない。見た目は随分重そうなのに、手にしてみたら意外と軽かった。


「本当に困ったことになったら、それを開けるのです。少しは助けになるでしょう。それと……もしも、あなたが時間を巻き戻し過去へ行くことになった場合。過去の世界でに会ったならば、こう伝えてください」


 ヨハンは言った。


「『Je ne peux pas vivre sans toi.』」


 聞きなれない言葉だと三善は思った。表情からそれを悟ったのか、ヨハンは優しい声色で続ける。


「日本語で『あなたなしには生きられない』、です。これを聞けば、あのひとは司教ファーザーが時間遡行をしたのだと理解するでしょう。おそらくブラザー・ホセにも同等の効果が得られると思います」


 ふむ、と三善は微かに唸って見せ、それからゆっくりと頷いて見せた。


「わかった。覚えておく」


 さて、とここでようやく三善は橘へ向き直る。


「ところでタチバナ。イスカリオテのユダとは」

「はっ?」


 三善が何か支離滅裂なことを尋ねてきた。意図がさっぱり読めないが、橘はしどろもどろになりながら答える。


「えっと、一二番目の使徒……イスカリオテのシモンの子ユダのこと」

「正解。その補充要員がマティアだ。さすがタチバナ」


 それが分かっていれば特に言うことはない。三善はそう言いたげに微笑んで見せ、それから帯刀へと向き直る。


「……という訳だ。完璧なリスク回避はもうしないことにした。ごめん、迷惑をかける」


 それに対し「仕方ない」と苦笑したのは帯刀だった。改めて三善が相当の頑固者だということを思い知らされた瞬間でもある。


 しかし、腐った状態のままでいるよりはずっといいのかもしれない。ようやく気持ちが上向きになってきたところなのだ。今は三善の選択を尊重するほうが上手く事が運ぶ気がする。帯刀は不思議とそんな気にさせられていた。


「ああでも、俺からひとつ、残念なお知らせだ」


 帯刀の発言に、「ん?」と三善が首を傾げる。


「当初『あのひと』たちを箱館に呼ぼうと思ったんだけど、ちょっとトラブルが発生した。だからみよちゃん、悪いんだけど、おれたちが碇ヶ関に行こう」


 予想外のその言葉に、一同目が点になったのは言うまでもない。


「……えっ?」

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