第五章 (8) 最悪だ

 通された客間に荷物を置くと、三善らは帯刀がいるという広間へ向かうことにする。


「ああ、みよちゃん、みなさんも。遠いところをわざわざありがとう」


 ちょうど膝に黒猫を抱えていた帯刀が、その気配に気づきぱっと顔を上げた。

 それを見て、おや、と三善は思う。ほんのわずかだが、帯刀の視線がずれたような気がしたのである。彼はなるべく人と目を合わせて会話をしようとするので、こんなことはほとんどないはずなのだが。


 ふむ、と微かに唸った三善の様子に、帯刀はとうとう反応することはなかった。


 ふかふかのソファに三善らが腰掛けたところで、慶馬が緑茶と茶菓子を運んでくる。帯刀が短く礼を言うと、代わりに抱いていた黒猫を慶馬に預けた。猫はちらりと三善を見たが、すぐに慶馬の胸に顔を埋めてしまう。


 やはり動物には嫌われる性質らしい。内心三善ががっくりと肩を落とした。


「さて、さっそくで申し訳ないけれど、今回の事情を説明する。前大司教は今離れで休まれているが……正直、いつ目覚めるか分からない」


 急遽碇ヶ関まで三善らを呼んだ理由がこれだった。


 聖都から日本まで移動している間に、ヨハネスは再び深い眠りについてしまった。こうなってしまうとヨハネスは少なくとも二週間は目覚めることがない。この五年でそれを学習した壬生は、日本に到着してすぐに知り合いのプライベートヘリを借用しこの場所までヨハネスを輸送することにしたのである。


 そんな事情もあり、ヨハネスを連れて箱館まで移動することは最早困難。そう判断した帯刀は、病み上がりで申し訳ないと思いつつも三善らをここまで呼ぶことにしたのだった。


「ヨハネスの対価は『眠り』だからな。彼は今までに何万回も時間を戻してやり直しを図っている。そろそろ対価の限界なのだろう」

 眠っている状態でよければ会うか? と帯刀が尋ねた。「みよちゃんの目的を果たすだけなら、条件としては足りると思うけど」

「……、うん。むしろ起きているときだとかえって面倒かも。おれだけで行くよ」


 それで構わないだろうか、とヨハンと橘へ目を向けると、彼らは強く頷いて見せた。


 離れはこの広間から少し離れたところにあり、途中、一本道の渡り廊下を通っていくこととなる。


「みよちゃん」

 帯刀がその名を呼んだ。「たぶん、次に大司教が目を覚ましたらそれが『最後』だ」


 歩くたびに板張りの床が微かに軋む。


「彼にはもう、自分のために使える時間はほとんど残されていないんだ。そんな気がする」

「……、うん。そうだね」


 ここだ、と帯刀が離れの戸に手をかけた。音を立てぬようそっと扉を開けると、部屋の中央に簡素なベッドがぽつんと置いてあるのが見えた。


「俺はここにいるから。済んだら戻っておいで」


 三善が部屋に入ると、帯刀はこのように言い、そっと戸を閉めた。


 今この時、かつての大司教と三善だけが離れに残された。


 耳を澄ますと、穏やかな寝息が微かに聞こえてくる。三善はそのままぼんやりと立ち尽くし、その寝息に聞き入った。


 なんとなく、近づくのが怖いと思ったのだ。そして、どんな顔をして会えばよいのか分からない。なにしろ相手は一時期「自分の身体を用いて好きに動き回っていた人物」だ。この世のどこにそんな奇妙な体験をする人間がいようか。しかしながら、いつまでもその場に立ち尽くす訳にもいかない。


 悩みに悩んで、三善は音を立てぬよう、そっと彼に近づいた。


 老齢の男性が静かに身体を横たえている。胸のあたりが微かに上下しているのを見て、それでようやく彼が深い眠りについているのだと分かるくらいに穏やかな姿だった。


 三善は彼の姿を見下ろすと、頬にかかる髪を梳いてやった。


 ――どうしてだろう。


 いつか彼に会う日が来るのなら、文句の一つでも言ってやろう。そう思っていたのに、今はどうしてもその言葉が出てこない。


 どうしてだろう。


 三善は瞼をゆるゆると細め、短く息を吐く。そして彼の手を握り、ゆっくりと釈義を身体に巡らせた。


 ゆらりと揺れる、炎を纏う瞳。徐々にその色が変色し、黄昏の空のように滲んだ朱へと変貌する。


 脳裏によぎるは世界の理を変える数式だ。

 三善はそれをひとつひとつゆっくりと吟味し、記憶し、頭の中で何度も何度も反芻する。随分残酷な数式、というのが三善の感想だった。一部よく分からない引数が使われていたが、全て読み込んだ後で再び思い返し、それがようやく“弾冠”を行うためのものだということに気がついた。


 なるほどそれは非常に合理的である。つまりヨハネスによる『時間遡行』は単純に時間が戻るだけではなく、現在の自己の脳が持つ「認知」と「それを軸とする行動基盤」を過去の自分の脳に上書きしているのだ。だから過去に戻ったとき、ヨハネスは今までの試行結果を把握していたのだと言える。


 全てを読み終えた三善がそっと手を離す。額には脂汗が浮かんでいた。軽い息切れをもよおしつつその場にへたり込むと、三善はポケットに入れていたハンカチで汗を拭う。


 三善は唐突に理解した。

『終末の日』を避けるためには、“七つの大罪”が持つ能力――特に“弾冠”の能力――が必要不可欠である。そのため、万が一の保険をかけようとしたとき「確実にその能力を引き継がせる」ことが重要になるのだ。


「だから『姫良真夜』を選んだのか、あんたは」


 それだけではないように思えるが、現在知りうる状況だけ見ればそうとしか考えられない。このひとはなんということをしでかしてくれたのだ。三善は思う。これは、どう考えてもひどい。ひどすぎて罵倒の言葉すら浮かばない。


「――最悪だ」


 しんと静まり返る室内に、寝息だけが聞こえている。

 どうしてこんなにも呑気に寝ていられるのか、この男は。たくさんの人を犠牲にしておいて、なぜこの男はのうのうと生きていられる。


「最悪だ」


 三善はもう一度、今度は侮蔑を含んで言った。

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