第四章 (12) 真っ白に染め上げられた世界

***


 眼下に広がるは、真っ白に染め上げられた世界。


 まるでコンクリートのように固められている地面は、全て『聖戦』の直後に降り積もった塩によるものだ。ヨハネスはそっとしゃがみこみ、地面を指先で撫でてみた。――指の痕が残らないくらいに踏み固められている。


 この塩に混ざり合う『灰』と『骨』が、二十年以上経った今でも彼を責めている。

 それでも、ヨハネスはああするしかなかった。それ以外に、彼は方法を知らなかった。


「このあたりは、ブラザー・ホセに任せたところだったな」

「ええ」


 その後ろで、ホセが静かに頷いた。そして、ゆっくりと彼の背後まで足を進める。靴音の反響。塩同士が擦れ合う、きらきらとした不思議な音が微かに聞こえる。それはあたかも燃やした骨を擦り合わせたときの音のようだった。


「君には、随分無理をさせてしまったね」


 ヨハネスの瞳には、空を染め上げる深い青と、地上の純白の二色のみが映っている。しかし、彼の目線はそれ以外の何かも追いかけている。

 ――まるで、違う次元を見つめているかのように。


「それは、否定しません」


 ホセは短く言い、己の横にぴったりとくっついているマリアの手を握った。彼女は不安げにホセを仰ぐが、それに対しホセはゆっくりと首を横に振るだけだ。

 彼らはゆっくり、本当にゆっくりと歩き、かつて戦地であった場所までやってきた。『聖戦』の前までこの地は随分豊かなものだったが、今は先述の通り、塩害に見舞われたおかげで草木も生えることがない塩の海と化していた。


「それで、……今の猊下の身体は、私のよく知る人物のものだと記憶しています」


 ホセの言葉に、ヨハネスはひとつ頷いた。


「ブラザー・ヨツジのものだな。そうか、彼には年の離れた弟がいたな」

「今はブラザー・四辻の後を継ぎ、神学校の学長を務めていらっしゃいます」

「そうか。彼には悪いことをした」


 ヨハネスはふっと息をつくと、それから祈るように瞼を閉じ、宙を仰ぐ。はらりと頭に乗せていたフードが滑り落ち、灰色がかった短い髪が露わになる。『聖戦』の頃からもう大分年月が経過したと思っていたが、その姿は当時からなんら変わりない。ホセの目には、まるで肉体から『時間』が奪われたかのように見えていた。


 ヨハネスがホセに合わせてだろうか、今度はフランス語で声をかける。


「君にはこちらの方が聞き取りやすいだろうか」

「どちらでも構いませんが……、そうですね。そちらの方が少しだけ反応は早いです。しかしそうすると、帯刀さんが聞き取れないのでは?」

「今は君とだけ話すつもりだから、別に構わないさ。指輪のことだろう? 君がわざわざ追ってきたのは」

「ええ」

 ホセは頷いた「このインタリオリングは本物ですか。今はそれだけ確認できればいい」


「本物だよ」

 ヨハネスはくすりと微笑む。「私の本来の身体をヴァチカンに納めたとき、ジェームズが回収したはずなんだが。色々あって私の手に戻ってきてしまった。印章は潰しておいた。あとは好きに使うといい」

「分かりました。これは息子に引き継がせます」

「そうしてくれ。息子なら、上手に扱うだろう」


 さて、とヨハネスは壬生の名を呼んだ。今度は日本語で、唐突に言う。


「ここでの私の仕事は終わりだ。ミブ、クムランまではどれくらいだろうか」

「え、猊下はクムランに行きたかったんですか?」


 そうだ、とヨハネスが頷いたので、ミブは思わず目が点になった。

 クムランまでは、到底歩いて行ける距離ではない。乗り物を使うにしても、このまま彼をのこのこ歩かせたら大変なことになるではないか。そもそも、一体なんの目的が。


 色々言いたいことはあったが、とりあえず壬生はひとつだけ言っておくことにした。


「ただ逃げていただけじゃなかったんですね」

「私に対する認識というものを、少しは改めてくれると助かる」


 これでも、一時は世界をまるごと受け入れていた教皇だったのだ。言葉にこそしなかったが、ヨハネスの口調や仕草からそういった主張を読み取れた。壬生は苦笑し、「考えておきます」とだけ言っておいた。


「それにしても、クムランねぇ……。なんとかすれば行けると思いますけど。体力的にはいかがです?」


 眠いんじゃありませんか、と壬生が尋ねると、ヨハネスは短く頷いた。


「眠いことには、眠い」

「ほら、言わんこっちゃない」


 今日は無理でしょう、と壬生が言いかけたとき、ヨハネスがおもむろに口を開いた。


「でも、どうしても今日じゃなきゃいけなかったんだ」


 瞠目した壬生が次の言葉を紡ぎ出そうとした、その時。

 背後に、一人分の気配を感じた。それも、壬生がとてもよく知る独特の気配だ。


まさか。


「――今日はとても天気がよろしいこと」


 女性の声だった。しかも、ここが『聖都』であるにも関わらず、彼女の言葉は聞き慣れた日本語だ。


 壬生は振り返ることが出来なかった。思い当たる節がありすぎて、脳の処理速度が追いつかない。動揺し過ぎてフリーズしてしまった壬生の代わりに、ヨハネスが振り返った。こちらは全て予測済み、とでもいったような様子で、いつも通りの穏やかな口調で尋ねる。


「ご機嫌いかがかな。お嬢様」

「悪くないわ」


 彼女は一歩一歩、こちらに近づいてくる。その気配だけを背中で感じ取り、壬生はさらに動けなくなった。あり得ないのだ。

 そう、あり得ない。この気配が、この場所にあるはずがない。

 だって彼女は。


「……あまりおいたが過ぎますと、お母様が泣きますよ。お父様」

「はる、か」


 ようやく絞り出した壬生の声に、彼女――帯刀春風はるかが満足げに微笑んだ。

 普段の彼女からは想像もつかないような、厳ついミリタリー・ジャケットにカーゴパンツという出で立ち。腰までの長さの黒髪は癖ひとつなく、凛とした蒼穹の瞳が壬生を捕えて離さない。


「ゆっきーの言う通りね。おそらくここにあなた方が現れると聞いたから、わざわざ欧州から迎えにきたんです。旅費交通費はお父様が出して下さいね」


 金に関する部分だけは随分しっかりしている。このあたりは母親似だ。こりゃあまいったな、と壬生が苦笑していると、ヨハネスが彼女に尋ねた。


「どうしてここが?」

「末弟の指示です」


 彼女がその連絡を受けたのは、二日前だった。

 スウェーデンに構える自宅にいた春風のもとに、珍しく弟の雪から電話が入った。普段は連絡ひとつ寄越さない雪なので、珍しいこともあるもんだ、と春風はうきうきとしながらそれに応答した。


 受話機の向こうから聞こえる弟の一言。


 ――春風姉、今から聖都に行ってくれないか。


「人使いの荒さはお父様譲りで本当に困っちゃうわ」

 春風は肩を竦めながら言う。「どうやらお姉様方にも同じ指示を出しているみたいですけど」


 それを聞き、壬生はふと何かを思い出した。そういえばイタリアに潜伏していた時、娘が追ってきたとヨハネスが申し出たことがあった。もしや、あの時すでにここへ辿り着くことを予測していたのではないか。


 否、彼女――秋子が予測できなかったとしても、雪が予測することは充分に考えられる。基本的に、この三姉弟は三人揃って一人前。とりわけ末弟の雪が言うならば、その姉ふたりが動かないはずがない。


 我が子ながら末恐ろしい。


「それで? 私たちを捕まえてどうするつもりだ」

 ヨハネスが尋ねる。「取引の材料にしようと?」

「いいえ。そんなつもりはありません」

 ただ、と彼女は微笑んだ。「あなたには会ってもらいたいひとがいるだけ」

「――断る」


 春風の言葉を最後まで聞かずに、ヨハネスは突然釈義を展開した。いつもの『時間遡行』だ。壬生はため息混じりに、それを引き止めようと彼の肩を叩いた。


「無駄だ、春風には効かな……」


 だが、予想外の出来事が起こった。

 春風がつかつかと彼に歩み寄り、勢いよくヨハネスの胸倉を掴んだのだ。通常ならば、彼が釈義を展開している際は誰ひとりとして近付くことすらできないのに。


 さすがのヨハネスもこれには瞠目した。


「あら、お逃げになるのですか? それはただの負け犬と言うのですよ、猊下?」


 にこりと微笑む彼女に、あの猊下が戦慄している。こいつはやばい、と本能が察知しているのか。


「負け犬なら負け犬らしく地べたに這いつくばりなさいな。ふふっ、可愛らしいこと」


 その横で、壬生が「あーあ」と言わんばかりの憐れみを含んだ瞳を向けている。


「春風、女王様入ってるぞ。パパはそんな子に育てた覚えはありませんっ」

「あら、お父様。これはお母様仕込みでしてよ」


 この家族は一体なんなんだ、とヨハネスが壬生に向けて助け船を求めた。すると、困り果てた様子で壬生は肩を竦める。


「うちの娘が申し訳ない。そいつ、一応先天性の釈義能力者で……。無意識に、あらゆる釈義を無効化するんだ。能力はそれひとつしかないから、エクレシアに所属していないというだけで」


 だからさっき「無駄だ」って言ったろう、と壬生が言った。


 次にホセへ目を向けると、彼は苦笑しながら首を横に振るだけだ。

 ヨハネスはこの時初めて思った。帯刀家には、なるべく関わらない方がよかったのではないか、と。

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