第四章 (2) 言える訳ないだろ

 橘が鷹――ユズと共に病室を出て行くのを、三善はひらひらと手を振りながら見送る。そして重い引き戸が完全に閉じられた瞬間、その表情ががらりと変わった。

 諸々の仕事を終え戻ってきたロンもリーナも、これには驚いた。二人は近くの椅子に腰かけながら、ためらいがちに話を切り出す。


「それで……みよさま。どうして俺たちを呼んだの。その、傷のこと?」


 ああ、と三善は頷いて、右手で腹部を擦った。今はそこまで痛くないが、痛み止めが切れるとまた地獄なのだ。よほど傷が深かったのだろうとは思うけれど、三善は敢えてそれについては触れないでおくことにした。きっと隣のベッドで飄々としている『彼』ならば具体的に教えてくれるだろうが、そんなことで小さなトラウマを増やしたくなかった。


「ブラザー・帝都には、この傷のことは“大罪”にやられた、ってことにしてあるんだけど。正確にはちょっと違う。おれ、あの時“憤怒Ira”第一階層に拉致されていてさ」


 予想外の告白に、ロンとリーナはぎょっと目を丸くした。当然、事件当事者のヨハンはベッドの向こうで平然としている。

 ロンがそれを横目に確認していると、ひどく動揺しているリーナが声を荒げた。


「じゃあ、三善君。“憤怒Ira”は――」

「ああ。浄化したよ」

 だけど、と三善は付け加えた。「いろいろと予想外、というか」


 すべてを話す訳にもいかなかったので、三善は暫し逡巡し、一度話を整理することにした。その様子に、ロンはぽつりと尋ねた。


「隣の彼のことは」

「ん、気にしなくていい。彼は『当事者』だ」


 よし、と三善はようやく顔を上げ、事の次第を説明し始める。

 肝心なところは省きつつも、三善が“憤怒”に拉致されたこと、どうやら現在の“憤怒”は“怠惰”と共に行動していたらしい、ということを伝えると、ロンとリーナは納得したように首を縦に動かした。


「それとは別の話になるけど、この間ブラザー・ジョンから連絡があった。本州第七区・菖蒲十条あやめじゅうじょう市、第四区・東西やまとかわち市に塩化現象が発生したらしい」


 それを聞いてロンが「うん?」と首を傾げてきた。何か腑に落ちないことがあったようだ。


「アヤメジュウジョウと、ヤマトカワチ? そこって確か『聖戦』の時に国内で唯一“七つの大罪DeadlySins”が手を出した地域だよね」

「ああ、その通りだ。『聖戦』の時に狙われたのは聖所があることが理由だろうけど、今回の件とどう結びつけていいのか正直分からん」


 さて、どうしたものだろうと三善は二人に問いかけた。


「『塩化』も根本原因を突き止めないといけない。この流れだと、おそらく次は箱館の番だろう」


 現に、今の箱館には橘がいる。彼の存在が今後どういう影響をもたらすのか想像がつかない以上、迂闊なことはできない。少なくとも、これだけは言える。


 彼に『その光景』を見せてはいけない。


 それを見せたら最後、橘は御陵市の件を思い出してしまうだろう。その瞬間に彼がではなくなってしまうのではないか。三善は漠然とそう思っていた。

 三善はゆっくりと息を吐き出す。


「とにかく、この付近に“怠惰”がいるのは本当らしい。ロン、支部に戻ったら科学研に行って、なにかいい案がないか考えてもらってよ。リーナは何が起こってもいいように、いつでも釈義を使えるようにしていて。本部に連絡して臨時でプロフェットを派遣してもらえるようにしておくから」


 それと、と三善はリーナへ向けて声をかける。


「ごめんな、いつも負担かけちゃって。もっと楽させてやりたいんだけど」


 あとはおれがなんとかするから、と呟くように言うと、ふたりはゆっくりと頷いた。

 その後二人はすぐに支部へと戻って行き、元の静寂が病室を包み込んだ。


 重い扉が、閉まる。


 今この空間は三善とヨハンの二人だけのものとなった。時計の針が動く微かな音だけが聞こえている。

 三善が横になろうと身体を動かしたとき、ヨハンがぽつりと囁いた。


「あの方たちには、『匣』のことは言っていないのですね」

「……、うん。言える訳ないだろ」


 しばらく衣擦れの音だけがしていたが、やがて、それはぴたりと止んだ。

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