第一章 (2) 神父(仮)
この教会は確か、「観光客は中に入れないが外観ならば見学可能」という場所だったはずだ。入口で出待ちでもするべきだろうか。
ゆっくりと石畳の階段を上り、橘はようやくそこに辿り着いた。
白い外壁に、どこから見ても十字のマークが見える独特の建築方式。それをふと見上げ、どきどきと脈打つ拍動を感じた。少々小ぶりではあるが、その不思議な外観にすっかり見とれてしまったのである。
正面から見てみようと思ったら、教会の横に折りたたみ式の赤い自転車が停めてあるのを発見した。
――この坂を、自転車で?
観光客にしては根性がある。そう思うことにする。
そのままぽてぽてと歩いて行くと、右手に木で造られた白のブランコが、そして左手には白いペンキで塗られたベンチがある。芝生の上に置かれたそれの周りにはプランターに収められた色とりどりの花が置かれており、風が吹くたびに可愛らしく揺れていた。
そのベンチの上に、誰かが仰向けに横になっている。
短い灰色の癖毛の男だった。白い聖職衣を身にまとい、肩には緋色の肩帯がかけられている。首から下げた銀十字は太陽の光を反射し綺麗な光を放っていたが、無惨と表現するしかないくらい傷だらけだった。
その風貌から察するに、ここに勤務する神父のようだが。
彼の腹の上に伏せられた状態で置かれているのは、聖典ではなくどう考えても週刊少年漫画誌である。耳には一つずつピアスが開けられ、加えて左耳には銀色の小さな十字が揺れるイヤー・カフが挟められている。そして口には、今も紫煙が立ち上る火のついた煙草。
橘は少しだけ、ためらった。
「これ、本当に神父さんなんだろうか……」
そもそも漫画を抱いて眠る神父なんか、今までに一度も見たことがない。本部で見たどの神父も聖典や仕事に関する資料などは持ち歩いていたようだが、こんなものは誰ひとり持っていなかった。それにこの場所を斡旋してくれた司教でさえ、その人物は大聖教の中では非常に有名で立派で、「聖人と言うならこのひと!」とお墨付きを頂いているような人物だったはずだ。こんな不良っぽい外見の男なんかじゃない。
その時だった。
「っあっち!」
煙草の灰がぱらりと落ち、その熱さで眠っていた神父(仮)は目を覚ました。慌てて灰を落とすとポケットの中から携帯灰皿を取り出し、手早く消火して再びポケットにしまいこむ。そして一度大きな欠伸をすると、背筋を伸ばした。
「よく寝た……んぁ?」
ふと、その神父(仮)と目が合った。橘はどきりとして身を固くし、これからどうすればいいのか必死になって考えた。しかし、予想に反してこの神父はいささか機嫌が悪そうに眉間に皺を寄せただけで、それ以外に橘に対し何も興味を持たなかったようだ。
「……観光客? ここは外しか見学できねぇよ。下の教会の方が見る場所がある。そっちに行きな」
彼はそのように言うと、ぐしゃぐしゃになった癖毛を左手でわしわしとかきむしる。その左手には夏場だというのに、白い手袋がはめられ、革のベルトで固定していた。
「ひ、人を探しているんです!」
橘はどもりながら言った。「
男はきょとんとした表情で橘の黒い瞳を見た。しばらく口を閉ざしていたが、再びベンチにその身を預け、目を閉じた。
「さあ。いるんじゃないかな」
「じゃあ、どちらにいらっしゃるか分かりますか? もしかしてもう別の場所に移動されたとか」
「さあ。……あっ! しまった、寝過ごした!」
男はその時、ふと思い出したようにがばりと起き上がり、橘に抱えていた少年漫画誌を適当に押しつけた。
「これ、やる!」
「え、ああっ、ちょっと……!」
そしてそのまま男は緋色の肩帯を翻しながら赤い自転車に跨り、一気に坂を下って行ったのだった。
まるで嵐のような人だった。
「……行っちゃった」
それにしても、と橘は思う。
あの人、神父には見えないけれど、唯一気になる箇所があった。
一瞬自分に向けられた、真っ赤なルビーのような深紅の瞳。あそこまで完璧な赤は見たことがなかった。
そしてそれと同時に思い出す。確かその、自分が探している『姫良三善』という名前の司教は、炎のような真っ赤な瞳をしている、と。彼を知る誰もが口をそろえて言うのだった。
「――まさか、」
あの人が?
橘はしばらくそのまま立ちすくんでいたが、はっと我に帰り、その自転車に跨った神父を追いかけることにした。きっと彼が、なにか知っているはずなのだ。そう感じたのだ。
そうと決まればさっさと移動しなければなるまい。橘は石段を急いで降り、その神父を無謀にもその足一つで追いかけ始めたのだった……。
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