第一章 (1) 箱館
少年、
見知らぬ土地に見知らぬ人々。初めて本州を離れ北の大地に足を踏み入れた彼は、この時点ですこぶる疲弊していた。
ここ数日、彼の身の周りであらゆる出来事が起こり過ぎて頭がパンクしそうだった。正直、混乱した状態でよく間違わずに列車に乗れたものだ。ついつい自分でも感心してしまうほどだった。
橘は黒い髪に一度だけ触り、先程観光案内所から入手したこの街の地図を見つめた。
それは観光客向けに作られた非常に簡略化された地図だった。あらかじめ情報誌などでも調べてきたが、完全に覚えてから来たという訳ではない。ただでさえ本州を離れたのは今回が初めてで、加えて一人旅すら初体験の橘は、まず何をすればいいのか自分でもよく分かっていなかった。
とは言いつつも、彼は当初の目的を忘れた訳ではない。彼は元々、人探しをするためにこの街・
綺麗に舗装された道路をゆっくりと歩き始めると、次第にこの街の特徴を知ることができた。
海沿いの小さな街。この地はかつて大聖教の勢力が特に盛んな場所であった。今は管轄の違いから技術特化した支部だけが残っていると聞くが、当時の名残で今でもあちこちに教会があり、この一角だけでもその数を数えるのに両手を使わなければならないほどである。
橘は、その大聖教に身を置くとある司教を探しにはるばる本州第三区・
しかし、その司教についての情報はかなり少ない。この街にある大聖教の支部に行けばいいと思ったのだが、事前に問い合わせたところ、その司教は各地を飛び回っているため支部には滅多に戻らないのだという。その司教を斡旋してくれた本部の司教でさえ、「しばらく会っていないから外見はすっかり変わってしまったかもしれない」と言っていた。
つまり、名前しか知らない司教をこの街の中から見つけ出さなければならないのだ。そう考えただけで橘はため息が洩れてしまう。
その司教を探すまでの旅費もただの高校生にとってはバカにならない、しかももし見つからなかった場合――。
最悪の事態が頭をよぎり、橘は思わず頭を激しく振った。そんなことはない、絶対見つかる! 何事にも前向きなのが自分の取り柄なのではなかったのか、と強く言い聞かせ、彼はその足を再び動かしたのだった。
観光名所としてはとても有名な赤レンガ倉庫の前をのんびりと歩き、ああ、確かここのスイーツがおいしいとか聞いたなあ、とぼんやりと考えた。まだ朝が早いので閉まっている場所も多いが、きっと時間が経つにつれ沢山の人でにぎわうのだろう。今日の終わりに、時間があれば寄ってみようかと思った。
途中、人力車を引いているという男性に会った。橘は人を探している旨を告げると、その男性はああ、と首を縦に動かす。
「あのひとを探しているのか、君は。無謀だねえ」
「えっ、知っているんですか?」
「この辺じゃあ有名だからな。でも、なかなかつかまらないとは思うぞ。腹が減るとたまにこの辺までくるみたいだけど。俺もここ一カ月は姿を見ていない」
「腹が減ると、……へえ」
その『たまに』の部分に期待はできそうにない。橘は彼に礼を言うと、再び歩き出した。
まず先に行こうと思ったのは、急勾配の坂道を上ったところにある教会群である。街中を字のごとく飛びまわっているのなら、こういう場所にいる可能性が高そうだ。それならば、今日はとことん教会巡りをしよう。そう考えたのだ。
走りぬけてゆく路面電車を横目に、ようやく辿り着いた大きく長い上り坂に足をかけた。
どうでもいい話だが、橘が住む御陵市も坂が異常に多い街である。おかげで足腰は普段から鍛えられており、息を切らすことなくひょいひょいと上ってしまう橘である。この街について書かれた雑誌では、かなり急な坂道なのでスニーカーで来ることをしきりに勧めていた。しかしこの程度かと半ば拍子抜けしている橘は、「これくらいなら地元のお姉さま方は普通にヒールの高い靴で上るぞ」と少々ずれたことを考えている。
それにしても、と思いながら橘はふと立ち止まる。もうすぐこの上り坂も上り切る。坂の下の方をぼんやり見下ろすと、先程歩いていた街並みがあんなに小さく見える。まるでジオラマのようだ。遠くの方で輝いている青い海は空の色によく似ていて、とてもきれいだと思った。少し冷たい風も今はとても心地が良い。
とても、いい街だ。
橘は願わくは、この街をゆっくりと歩く時間ができればいいなと思っていたのだ。
坂をようやく上り、まっすぐに延びる石畳の道を歩く。道の端の方で、絵を描いている男性がいた。件の司教について尋ねてみると、意外にも「その人なら向こうで見たよ」と親切に教えてくれた。せっかくなので、彼の描いた絵が入っているポストカードを一枚購入し、礼を言うと再び歩き始めた。
彼が言うには、今向かおうとしていた教会のさらに奥にある教会にいるらしい。なんと幸運なのだろう、こんなに早く見つかるとは。世の中必要なのは八割決断力だと自負している橘だったが、残り二割はやはり運なのだとひとり納得している。
弾む心を無理やり落ち着かせながら、橘はきついはずの上り坂もひょいひょいと上りその目的地へと足を踏み入れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます