第一章 (3) 黄昏

 橘が道端に駐輪してある赤い折りたたみ自転車を発見した時には、辺りはすっかりオレンジ色の光に包まれていた。


 あれから彼が姿を現しそうな場所を点々としたが、結局見つからず。最後に訪れたのがこの場所・外国人墓地である。


 海を臨む小さな入り口に、赤い自転車がぽつんと停めてあった。

 すっかり疲れ果ててしまっているが、ここまできたら引き下がる訳にはいかない。彼を探して、橘もその場所に入って行った。


 空の色が徐々に変化していく。朱鷺色から、滲んだ藍色に。そうして、この街はネオンの光に包まれてゆくのだ。黄昏の空は、いつもよりもどこかしんとした空気を孕んでいた。


 海が真正面に広がるからか、潮騒が耳にぼんやりと響く。ざらざらとした心地のいい音だ。


 まるでこの波の音は、この地に眠る人々への鎮魂歌のように感じられた。それだけ澄み切った、哀愁に満ちた音だったのだ。


 茶色の小路を小走りで行く橘の耳に、微かに歌声が聞こえてきた。よくよく聞くとそれはどうやら讃美歌のようで、聞いたことのない言語で紡ぎ出されている。橘はその声を頼りに狭い道を歩いた。


 ――あ、と思う。


 海を臨み、柵の前で歌うのは先程の神父だった。風に流されて、緋色の肩帯や銀十字、そして裾の長い聖職衣までもゆったりと揺れている。瞳を閉じ歌うその姿は、先程のだらけた姿などすっかり忘れてしまうほど、神聖且つ美しい。思わずその端正な横顔に見とれてしまうほどだった。


 ふと、男は瞳を開けた。炎のような赤い瞳が夕陽の橙を含み、より一層燃え上がった。この瞳はきっと、なにか別のものを見ているのだろう。遠くを見つめる瞳は、自分には分からない次元を見つめているようにも感じられた。

 そこでようやく、彼は橘の存在に気が付いた。


「――なんだ、お前か。また会ったな」


 ふ、と笑うと、彼は呆然と立ち尽くしたままの橘に右手で手招きをした。

 橘はそれに従い、ゆっくりと彼に近づいた。かなりの時間をかけて、彼の横まで辿り着く。遠くの方で船の汽笛が鳴り響いていた。


「きれいだろ」

 彼は嬉しそうに言った。「この時間の空が、一番きれいなんだ。後ろの連中も、きっとこれを好きだと思う」


 そう言って、彼の後ろに並ぶ白い墓標を指した。彼らは海の向こうの母国を見つめ、そして静かに思いを馳せている。


 波の音。しばらくその音に耳を傾けると、徐々に気持ちが溶けてゆくようだった。

 今なら、きっと落ち着いて話すことが出来る。


「……あなたが、姫良三善司教ですか?」


 橘が呟く。彼はその間、ずっと海の向こうを見つめていた。その顔に表情はない。ただ、見開かれた赤の瞳だけが波間を彷徨っている。それから彼はゆっくり瞳を閉じ、おもむろに返事した。


「うん。そうだ」

「どうして早く言わなかったんですか?」

「だって君は、そういう風に聞かなかっただろ」


 あーあ、と背筋を伸ばし、男――姫良三善は大きく欠伸した。きれいだと思った彼の姿は今、どこにもない。元のだらけた姿に戻ってしまった。


「そもそも君はおれに何の用があるんだ。誰がおれのことを君に教えたのかは知らないが――」

司教ファーザーです」


 ぴたりと三善の動きが止まった。橘は続けて言う。


「ホセ・カークランド司教に斡旋してもらって、御陵市からここまでやってきました。紹介状もあります」


 ホセが? と度肝を抜かれたような表情を三善は一瞬見せた。だが、すぐに元の精悍な表情に戻る。赤い瞳が曇り、しきりに何かを考えているようだ。

 突如、強い風が二人を叩きつけた。耳鳴りがするほどの勢いに一瞬気圧される。茂る木々は擦れ、落ち葉は風と共に宙に舞う。苦しくて息ができない。


 その風は次第におさまり、元の静けさを取り戻してゆく。


「――俺を、助けてください……」


 橘が細い声で、ようやくその一言を吐き出した。静かなる慟哭だった。その声色に、戸惑いと焦り、それらがすべて集約され揺れ動いていた。どれだけ彼が大変な思いをしてきたのか、三善は何となく理解した。


 だからだろうか。だるそうにはしていたけれど、次に三善が口にした言葉は存外柔らかいものだった。


「……君の名は。何と言う?」

土岐野ときのたちばな。修道女の、土岐野あめの弟です」


 どうりで、と三善はそれを聞くなりため息をついた。


「誰かに似ていると思ったら、雨ちゃんの身内か……。それにしてもホセ、ね。ったく、一体何のつもりなんだか。とりあえず電話してみねぇとなあ」


 くるりと踵を返し、三善はさっさと自転車のある場所まで歩き出した。慌てて橘も追いかける。また逃げられると思ったのだ。


「待って下さい! 司教ファーザー!」


 やっと追い付き、橘は三善の左腕を掴んだ。これで逃げられることはないだろう。

 しかし、のろのろと振り返りわずかに橘を見下ろした三善は、めんどくさそうな口調ではっきりと言い放ったのだ。


 別に逃げねぇよ、と。


「君の話、聞こうか。ホセがわざわざ寄こしたってことは、何か相応の事情があるんだろ」

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