八月七日 7 (3) 天使祝詞

 ――刹那。


「『深層significance発動』」


 リーナの耳に突如男性の声が聞こえた。ごう、と火の粉をまとう黄味がかった炎が女性をみるみる覆い、その長く伸びた爪を燃やしてしまった。その炎の勢いに驚き思わずその場にしゃがみこんでしまったリーナだったが、その熱風に吐き気がするほどの聖気を感じ、のろのろと顔を上げる。


 彼女の前に立ちはだかるのは、黒いスーツを身に纏った小柄な男性だった。短い灰色の髪は癖毛らしくふわふわとしている。うしろ姿しか見えないので彼の表情は分からないが、そのすらりとした体躯は衣服を身に纏っていてもよく分かる。彼の左耳が炎の光を受け、瞬いているのに気がついた。よくよく見ると、彼の左耳――ちょうど軟骨部分に十字の飾りがついたイヤー・カフが留められており、それが風圧で揺れ動いていた。


「……、“色欲Luxuria”か、お前」


 聖火をその左手に吸収させ、ふ、と息を吐き出した男性はぽつりと呟いた。呆然とするリーナをよそに、炎に打ちのめされひっくり返った女性を彼はゆっくりと抱きあげる。


「貴女の名は?」


 女性が苦しそうにうめきながら、小さな声で名を唱えた。ゆっくりと、掠れた声で。その聖なる炎で、“七つの大罪”の力が弱まったのだ。その声を男性は頷きながら聞き、彼女のぼろぼろに傷ついた手をそっと握る。


「神の名を。そうしたら救ってやるよ」


 めでたし聖寵、充満てるマリア。

 彼女の耳元でその祝詞を唱え、復唱するように囁く。


「『……めでたし、聖寵。充満てる、マリア』」


 その瞬間、彼女の身体が温かな光に包まれた。そっと浮き出る丸い光の粒に、臆することなく彼は触れる。一瞬紫色の火花が散ったが、すぐに元の温もりを取り戻す。


「“Fiat eu stita et pirate mundus.Fiat justitia,ruat caelum.”――『秘蹟Sacramentum展開』。天国の門へ、迷わず進まんことを」


 その光る粒は、彼の手の中でぱっと紫色の花弁となり、風に流されていった。


 リーナは呆けたまま動けなかった。先程まで全く歯が立たなかった“七つの大罪”を、彼はほとんど傷つけることなく浄化してしまった。そして聞いたことのない釈義の祝詞――『秘蹟』と、彼は確かに言った。それを操ることのできる人物はただひとり、今は亡き大司教だけのはず。それなのに、彼はいとも簡単に使いこなして見せた。


 このひとは一体何者だろう?


 しばらくして、男性が抱えていた女性は目を覚ました。その状況が全く分からずに混乱していたようだったが、彼が丁寧に説明し、念のため救急車の手配までしていた。


 女性が救急車で運ばれていくのを静かに見送ると、その男はようやく呆けたまま動けなかったリーナに手を伸ばした。


「大丈夫か? さすがに痛かったろ」


 彼はそのとき、ようやくリーナにその顔を見せた。


 ルビーを連想させる澄んだ真っ赤な瞳を持ち合わせた、優しげな表情を浮かべた人物。スーツの左衿を見るとエクレシアのピンが刺してあるのに気がついた。まさか、と思う。


「あなたは……」


 そのとき、彼の携帯電話が鳴った。彼は懐から白いボディのそれを取り出し、通話ボタンを押した。


「……ああ、イヴか。もう着いたよ。迎えがなかなか来ないから、支部の近くまで来たんだけど……、うん、そう。道に迷った。ところでその迎えっていうのはどういう奴が来るの?」


 彼女の耳に知っている人物名が出てきた。


 ――今『イヴ』とか言ったか?


 そのとき彼女の胸に残る疑惑が確信へと変わった。


「うん? 灰色の髪の修道女シスター?」


 そこでようやく、彼は腰が抜けたまま呆けているリーナに目を向ける。


「……あー、なんかそれっぽいのが今腰抜かしてるんだけど」


 少し受話器から口を離し、男はリーナに尋ねた。


「あんた、もしかして羽丘リーナとかいう名前だったりする?」


 リーナはおずおずと首を縦に動かした。彼女の予感はどうやら的中しているらしい。後に電話を切ったその男は、困ったような表情でリーナを見下ろす。……否、困ったというよりは完全にあきれ果てた表情だ。それが嫌でも分かる。


「ああ、唯一のプロフェットがこれかよ。今までどうしていたんだ、ここの支部は……想像以上にやばいな」

「し、失礼な! 一体何なんですかあなた、初対面で!」


 自分のことはともかく、支部を中傷するのだけは許せない。リーナは思わず彼に対し強い口調で文句を言ってしまった。言ってしまったあとでその失態に気が付き、はっとしてしまったが、彼はそんなことは全く気にしていないらしい。むしろ一度驚き目を瞠ってから、眉を下げて笑ったのだった。


「確かに初対面で言うことじゃないな、悪かったよ。それで、ええと。シスター・リーナ。おれ、箱館支部に行きたいんだけど、案内してくれないかな。すっかり迷っちゃって」


 困ったように肩をすくめた彼は、リーナの腕を引っ張り無理やり立たせてやった。


「あなたが、司教ファーザー……ですか?」


 きょとんとして、彼は赤い瞳を丸くした。


「ああ、そうだ。イヴから聞いてないか?」

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