八月七日 8 (1) 海の奥深く

 まじかよ。聞いてねえよ。


 思わずロンはそう呟いていた。


 今、彼らの目の前で、灰色の髪の男――今はスーツではなく司教用の白い聖職衣を身に纏っている――がラテン語で祝詞を上げている。


 滑らかな発音に澄んだ声。それが聖堂に響くたび、途端に周囲の空気が変わる。

すさまじいほどの聖気だ。リーナが事前に「吐きそうだった」と感想を述べていたが、まさにその通り。今すぐその場に跪き自らの罪を告解しなければならないと思ってしまうほどの清浄さだ。


 この緊張感をたった一人の青年が生み出しているのだ。俄かには信じられまい。


「――Amen.」


 そして締めの言葉が告げられた。

 彼の全身からは今も莫大な聖気が立ち上り、重々しい何かで威圧していた。彼は小さく息をつくと、ゆっくりと振り返る。


「……はじめまして、が姫良三善です」


 にこりと微笑んだ。

 その表情は本当に美しかった。例えるならば、そう、中世に描かれた天使の絵画だ。もともと端正な顔立ちなのだろうが、その慈愛に満ちた表情が、彼の持つ穏やかな雰囲気をより一層引き立たせている。左耳についたイヤー・カフが揺れ、蝋燭の光を弾いた。


 ロンとリーナは突如現れた天使の実像に、未だ驚きを隠せない様子でいた。


 ――さっきはもっとぶっきらぼうだったじゃない。


 そう考えているリーナのすぐ横で、ロンは何故か俯きながらぷるぷると震えている。


「……ロン?」


 彼の様子がおかしい。礼拝が始まる前から既に変ではあったけれど、ここまで動揺するほどおかしくなったりはしないはずだ。具合が悪くなってしまったのだろうか。リーナは恐る恐るロンの顔を覗きこんだ。


「どうしよう……すっげえ、好み……!」


 ここにバカがいた。

 小さくため息をつき、リーナは目を覚ませと言わんばかりにロンの後頭部を殴ってやった。すっこんと軽快な音がする。あまりに軽い音がしたので、頭の中に何も詰まっていなかったらどうしようと妙な心配をしてしまうほどだ。


「なにすんだよ、リーナ!」

「あまりにあんたがアホだったから、つい」

「だってこっちが持っていた資料は十六歳当時のものだぞ! あれがああなるなんて誰が想像するんだよ!」

「なにそれ、あんた資料なんか持っていたの? それを先に言いなさいよ」


 最終的に二人は三善そっちのけで口喧嘩を始めたので、三善はそっととイヴに近づき、小声で「資料って何?」と尋ねた。イヴは「ロンにエクレシア管理の経歴等資料を渡しておいた」旨を説明し、そのコピーを三善に手渡す。


 三善はふむ、と頷きながらもぺらりとめくり、一行一行じっくりと読んでいく。初めは首を縦にいくつか動かしていたのだが、後半に進むにつれ表情がなくなってゆく。


 そして。


 ――びり、と破る音。


 それに気がついて、今の今まで騒いでいたロンとリーナは黙りこんだ。三善が資料を破っていたのである。三善はそれが一体何なのか判別がつかないくらいに、それはそれは細かくちぎっている。


「……本部で作ったものなんか信用するんじゃない。あれは嘘ばっかりだ」

「え、その資料は」

「ほとんど嘘っぱちだ。十六歳で司教になったのは本当。だけどそれ以外は嘘。洗礼を受けたあたりの話なんかは完璧な捏造だ」


 かつて「資料だったもの」を適当に放ると、三善は踵を返し、さっさと聖堂を後にしてしまった。イヴも彼を追って出て行く。ぱたぱたという軽い足音のみが聞こえていた。


 その場に残ったのは、ひらひらと舞う紙吹雪と、すっかり呆けてしまい動くことができなかったロンとリーナのみ。


 足音も遠ざかり、静かになった聖堂に、ロンの呟きがぽつりと響く。


「……やっぱ好みだ」

「だからあんたはバカなのよ」


***


 三善は支部の仕事場に戻り、自分に与えられたデスクに目を向けた。


 既に整理すべき書類が山積みになっている。以前はイヴを遠隔操作して処理していたのだが、これからは自分自身で片づける必要がある。本部で二年間やっていたようなこととほぼ同じだ。慣れてはいる。


 ふ、と息をつき、三善はデスクの真後ろに広がる大きな窓を開けた。海がよく見える、すばらしい場所にこの建物は存在していた。潮騒のかろやかな音が、その耳に心地よい刺激を与えてくれる。


 しんとした凪。暫しののち、また波のノイズが聞こえる。その繰り返しだ。

 そのまましばらく、三善は海を見つめていた。


「……主人マスター。先程は申し訳ありませんでした」


 背後から声をかけたのはイヴである。


「いや、あなたは悪くない。こちらこそ申し訳なかった、一方的に怒っちゃってさ」


 三善は振り返ることなく、そのように返答した。

 瞳を閉じ、風を感じる。その横顔はただ一筋の風に何かを求めているかのようだった。心はいつも海の奥深くにある。自分でもそう自覚している。だからこの場所に来ることを選んだと言っても過言ではない。


「ここはいい場所だね。海がこんなにも近い」


 イヴは何も言わず、ただ彼の横顔をじっと見つめていた。彼女は三善が海に「何を見ているのか」を知っている。彼女のプログラムが生成される段階で、あらかじめ本人から聞かされていたことだった。だからその件については、何も言う必要がない。『彼』を語るために、彼らの間に言葉など必要ないのだ。

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