第五章 (10) これからのこと
その日はやたら寒かった。
自室の布団の上でごろごろ転がっていたケファは、電話で突然ジェイに呼び出された。一旦通常業務のためドイツに戻ったものの、どうやら今回の件について正式な対応を本部より求められたため、急遽戻ってきたとのことだった。
彼女は直接
ジェイはすぐに承諾し、一時間後に約束を取り付けるとすぐに電話を切った。
そうと決まればいつまでも転がっている訳にはいかない。ゆっくりと身体を起こし、ハンガーにかけたままの白い聖職衣を取った。一度クリーニングに出したものの、やはり『契約の箱』の一件で生地を痛めてしまっている。よくよく見ると至るところが擦れて繊維がはみ出していた。
これは諦めて新調すべきだろう。「これ高いんだよな」とは思ったが、長年貯金した給料で多少は賄えるだろうとすぐに考え直した。
寝巻代わりにしていた薄手のインナーシャツを脱ぐと、聖職衣用の小奇麗なシャツに袖を通す。その際に姿身に映った己の背中が目に入り、思わずどきりとする。
自分が今まで使用していた全釈義を三善に渡したので、今後あれ以上のリバウンドを起こすことはない。しかし、この聖痕だけは刺青のようにきれいに残ってしまった。後から調べてみたものの、先天性釈義の聖痕に関する資料はそもそも存在しなかったので、今後どうなるかすらも正直予想がつかない。運が悪ければ、このまま科学研行きだろう。
――それも、悪くないか。
ぼんやりと、ケファは思った。
***
待ち合わせ場所として指定した懺悔室にジェイが入ると、ケファは既に入室済みであり、不機嫌そうな様子で彼女を待ちかまえていた。眉間に皺を寄せつつ、身体を揺らしたり首を左右に傾けたりと、彼らしからぬ無駄な行動をとっている。つまりは相当暇だったらしい。
思わずジェイは笑った。
「お待たせ、ケファ君」
「超待ったぞ」
「ひどいなあ。こっちは君の対応に追われて大変なんだけど」
「それはそれ、これはこれだ」
ここまではっきりと言われてしまうと、かえってすがすがしい。
ジェイは苦笑しつつ、白い外壁に埋め込まれた鉄格子越しにケファを見た。存外元気らしく、そのあり余った体力をどこに使ったらいいか分からない、といったところだろうか。それならばいい。元気でいてくれる方が、こちらにとっても都合がいいのである。
もっと落ち込んで、最悪腐ってしまうかと思っていたが――それは思い違いだった。どんなに厳しい状況に陥っても立ち上がることのできる芯の強さ。それがこの男の最大の強みだ。
別の言い方をすると、執念深い。
その単語が妙にツボにはまってしまい、ジェイは思わずくすくすと笑ってしまったほどだ。
「えっ何、気持ち悪いんだけど」
「ごめんごめん、思い出し笑いみたいなものだから気にしないで」
それじゃあ本題、とジェイは少し前のめりになって話を進めた。
「やっと辞令が降りたでしょう?」
「ああ」
ケファは軽く返事し、困惑した様子で肩をすくめた。「予想はしていたけどな。まあ、『喪失者』になったんだから当然か」
三善に全ての釈義を渡すということは、すなわち『喪失者』になることを意味する。
元々入団当初からプロフェットとして活動していた彼は、おそらく急激な環境の変化に戸惑っているのだろう。三善が今後も元気に生活するためとはいえ、彼にとっても、エクレシアにとっても大打撃であることは事実。実際、人事部から通達された辞令によると彼は本部勤務から外され、ヴァチカンに異動となることが決定していた。
あの場所はケファの前勤務先にあたるため大して心配はしていない。しかし。
「一応付け加えさせてもらうけれど。これは君の今後を考えて、よくよく考えた上で出した結論なんだよ。それは分かってほしい。考えてもみなよ、君くらいの年齢の司祭がヴァチカン勤務って、結構珍しいんだよ」
「知っているよ、それくらい。前にいた時もそうだったし。あのクソ狸が枢機卿を相手に奮闘したっていう話も聞いている。……いろんな人に助けられて、今、俺はここにいる。ここに立っていられるのも、自分の功績なんかじゃない。感謝しなくちゃな、本当に」
どうしてだろう。そう言って笑った彼が、ジェイが今まで見てきた中で一番いい表情をしていると思った。
彼の言うとおり、ケファの本来の役職からすると自己の功績というより「誰かに立たされている」というのが正しいところなのだろう。それを理解し高邁な精神をもって臨む彼が、ああ、やはりきれいなのだと実感する。
こんな彼だからこそ、姫良三善の指導役を任されたのだろう。
「それじゃあ、今後について一応説明するね」
まずはドイツの
そして、その後ヴァチカンに行き正式に『喪失者』の認定を受けること。それらが完了しない限り、彼が職場に復帰することは許さないとも言っていた。
「それにしても、よく自分から『釈義』を手放す気になったよね。ボクと出会った頃は“絶対に手放さない”っていう、惨いくらいの気迫があったのにさ」
ぴたりとケファの表情が硬くなる。何やら言葉を慎重に選んでいる様子で、彼には珍しくのろのろとした様子で口を開いた。
「結論から言うとそうせざるを得なかったというだけなんだが……、うん。あいつが今まで通り元気でいてくれるなら、それが一番幸せなんだと思って」
その穏やかな表情を見て、ジェイは心底安心した。よかった、と小さく呟いて、それから笑った。
「まあ、君はとても優秀だからね。プロフェットでなくとも、他に道はいくらでもある。例えば、エクソシストなんてどうだろう。意外と需要あるよ。君、司教見習いだろう? 権能も十分だ」
「……」
突然ケファが黙りこんだ。きょとんとしてジェイが格子越しに彼を見つめると、なぜかケファはその紫色の瞳を明後日の方に向け、何かをごまかしにかかっていた。今までの話の流れからすると、おそらく。
ジェイはすぐに理解して、わざとらしい大きなため息をついた。
「ああ、なるほど。君は『悪魔祓い』が苦手なんだっけ。修行が足りないんじゃないの」
「うっさいな! 嫌いなんだよ!」
「言い訳はやめなよ! 本当、君ってば結構残念な人だよね!」
いきなり残念な人扱いされ、むしろそちらの方がひどく傷ついたケファだった。
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