第一章 (9) 察しがよすぎるのも考えもの

 控えめに戸を叩く音がしたかと思えば、三善が顔を覗かせた。


 あれから引き続き資料に目を通していたケファは、紙をめくる手を止めると、それを枕元に追いやった。


「どうした。今日は終わりか?」


 三善は頷き、ケファの隣にまで近づいてくる。基本的にケファが三善の元を訪れないという日はない。そういう意味では、今日が初めて彼に会いに行かなかった日でもあるのだ。だからだろうか、三善は少し遠慮しているようにも見えた。


「昨日病院に行ったって本当? 怪我でもしたの」


 三善からそう問われるとは思っていなかったケファは、つい目を丸くしてしまった。


 まだ三善には何も言っていないはずだが、と一瞬考え、それからつい数時間前にノアが三善に会ったということを思い出した。おそらく、ノアがそのように三善に言ったのだ。


「いや、怪我はしていない。ただ風邪をひいただけだから」


 ケファがそう返すと、三善は微かに眉を動かしたが、すぐに「そっか」と頷いてくれた。


 なんだか良心が痛むが、この場合は仕方がない。嘘をついて申し訳ないと、三善と己の信じる神に胸の内で謝罪しておいた。


 三善はふと枕元に積まれている書類の束に目を落とした。大量に書き込まれる青いボールペンによるメモに、ケファがその資料に対して膨大な時間を割いて向き合っているということが見て取れた。


 だが。


「……風邪をひいている人が、なにしてるの?」


 三善が詰問するような口調で尋ねた。彼は少し怒っているのだ。

 ケファはしれっとした調子で返す。


「これ? 今話を受けている原稿の下準備。締め切りが結構きつくてさ」


 多少体調が悪くても無理をしないといけないのだと真顔で言っておいた。どのみち資料は日本語以外の言語で書かれているので、三善にはほとんど読めないはずである。まさかお前を延命する手段を探しています、とは口が裂けても言えない。お前が次の大司教になれなどと言った手前、本人のやる気を削ぐようなことはしたくなかった。


 三善はそれで納得したのか、さも興味のなさそうなそぶりでふうん、と呟く。


「そう」


 でも無理はだめだよ、と三善は冷めた口調で言った。


「あんまり近くにいるとうつるぞ。ほら、行った行った。明日はそっちに行くから」

「はいはい。無理はだめだよ」

「おう」


 三善は意外と潔く部屋を出ていった。扉が静かに閉じられる。


 なんだかんだで来客の多い日だった。


 ふ、と息をつき、邪魔になっている長い前髪をかきあげた。釈義が異様な熱を帯びているせいか、体が少し汗ばんでいる。一度ベッドから降り、クローゼットを開けると、着ていたシャツを脱ぎ新しいものに袖を通した。その際、姿見に一瞬背中の聖痕が映ったが、見て見ぬ振りをする。


 さて、とケファは再び資料を手にしたところで、ふと何かに気が付いた。


 そういえば、姫良真夜の写真のコピーが見つからない気がする。しかしこの大量の紙の山、埋まっている気がしないでもない。数秒思考を巡らせるも、面倒くささの方が勝ってしまったケファは、ひとまず明日探すことにした。特に失くしたところで問題になる紙でもなかったのだ。


 一旦書類の山を机に移し、ようやく布団に潜り込む。微かに背が痛んだが、横になるとしばらくして痛みは治まった。


***


 完全に戸を閉めたところで、三善はふっと息をついた。そして、懐から一枚の紙を取り出す。


 それは一人の女性が映ったコピー用紙だった。年齢は二〇代中頃だろうか、モノクロコピーなので色までは分からないが、色素の薄い巻き髪に穏やか表情というとてもきれいな女性だった。


 先ほどケファの部屋で見つけた写真である。枕元に積まれた資料の山に紛れていたのを目にして、三善は思わず持ってきてしまったのだ。


 なんとなく、自分に似ていると思ったのだ。

 もちろんあとで返すつもりであるが、その前に色々と確認しておきたいことがある。


 写真の端に、手書きのメモが残されている。白髪の聖女、と書かれていた。


「あれ? ヒメ君。こんなところでどうしたんです」


 突然話しかけられて、三善は思わず変な声を上げてしまった。写真は再び懐にしまい込み、その声の方へ向き直る。


 ホセだった。今帰ってきたところのようで、いつものスーツ姿に上からコートを着ていた。外が寒かったせいだろう、微かに頬に赤みがある。


「ちょっとケファのところに」


 三善が言うと、ホセはそうですかと小さく頷く。


「ということは、まだあの人は起きているんですね」

「うん。ところでホセ、昨日からどこに行っていたの? マリアが探していたんだけど」


 ホセが微かに顔をひきつらせたのを三善は見逃さない。試しに追撃してみることにした。


「まあ、うん。分かっているよ。細かいことは聞かない」

「なんだか『僕はすべてお見通し』的なリアクションをとられると心底へこむんですけど」


 三善が大司教になる宣言をして以降、三善の態度が悟っている風になっているのが少々気になるホセである。妙なところで勘が働いているのか、それとも。


 ホセは脳裏に過るひとつの可能性を全否定した。とりあえず、言い訳をする努力はしておくべきと考え、言葉を濁しながら言った。


「昨日ケファが“大罪”の対応に行ったでしょう? なかなか戻らないので迎えに行ったら、あの人ったら雨の中熱出して倒れていまして。そのまま病院に連れて行って一晩入院してもらったんです。私はそのまま付き添い」


 あながち間違いではない。


「ついでにシスター・ノアと土岐野さんを迎えに行って、一度ケファとノアを本部に降ろしてから土岐野さんを連れて御陵市まで行っていたので、この時間です」


 どうだ、とでも言わんばかりの言い訳だが、三善は一言、


「そんな必死にならなくても」

 とばっさり切り捨てた。「でも、言いたいことは分かった。ケファの体調ってどうなの? ちょっと無理をしているみたいに見えるんだけど」


「うーん、そうですねぇ。ちょっとこじらせているみたいなので、しばらくお休みですかね」


 ヒメ君も風邪には気をつけてくださいね、とさりげなく注意を促し、ホセはそのままケファの部屋にノックもなしに入っていった。案の定、戸の向こうから「お前はノックくらいしやがれ」と文句を言う声が聞こえてくる。


 三善はそのまま微妙な顔をしながら戸を見つめていたが、


「ま、仲がいいこと自体は悪いことじゃないか」

 とひとりごちて再び歩き出す。

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