第一章 (8) 飛び越える

 ノアはため息をつき、ベッド脇に勝手に腰掛けた。


「そんなことだろうと思った。カークランドまで庇っているみたいだったから、おかしいと思ったのよ。別にプロフェットの中ではリバウンドなんて、珍しくないわよ」

「……そんなもん?」

「私もやったことあるもの。聖痕は残らなかったけど」


 じゃあ同じ土俵にすら乗ってねぇじゃねえか、とケファは拗ねた。ベッドの上で膝を抱え、むすっとしているので、少なからずいらだちを覚えたノアは彼の頭を鷲掴みにした。そしてそのままぐしゃぐしゃに頭を撫で回す。


「なにしてくれてるの、お前」

「いい大人が拗ねたって可愛くないのよ、莫迦」


 結構えげつない口調だが、これもいつものことである。だからそれ以上ケファは彼女を責めようとは思っていなかったし、彼女もまたそうだった。すぐにその手は止まり、彼の肩に置かれる。ほんのりと、温かさが伝わった。


「……あなたの身体はもう、あなただけのものじゃないの。決して疎かにしないでほしい。今無理をしてあの子と永遠に離れるより、今ほんの少し離れてでも長く一緒にいる方がいいと思う。あの子も子供じゃない、分かってくれるわ」


 そう、あの子――三善だって。もう何もできない子供ではないのだ。


「分かっている」


 分かっているつもりだ。しかし、彼にはほとんど時間が残されていないのだ。ならば、無理をしてでも。


 彼は生きるべきだ。自分以上に。


「なあノア。このこと、三善には――」

「黙っておいてあげる。その時がきたら、自分で話しなさい」


 そう言いながら、ノアは小さな箱をサイドボードの上に置く。彼女の本当の目的はこれだった。別にケファを叱りに来た訳ではない。それに気がついて、ケファは伏せていた顔をゆっくりと上げた。


「それ……」

「さっきブラザー・ミヨシに持っていったら、あんたに渡せって言うから。ほら、確かに渡したからね」


 ゆっくりと立派な造りの箱を開けると、中には美しい彫金が施された新品の銀十字が納められていた。ケファが元々使っていたものは三善にあげてしまったので、新しいものを取り寄せていたのだ。しかしここ数年は三善にかかりっきりになっていたので、取りに行く暇がなかったのである。


 送ってもらえればよかったのだが、こればっかりは「自分で取りに来い」と言われていたので放置せざるを得なかったのだった。


 おそらく今回ノアが来日しなかったら、彼がこれを取りに行くことは永遠になかったと思われる。


 ケファはゆっくりと、右の中指で十字の表面をなぞった。彫金のくぼみ以外には傷一つない、真新しいそれは彼にとってあまりにもまぶしすぎた。再びふたを閉め、サイドボードの上にゆっくりと置く。ことん、と軽い音がした。


「うん、ありがと」

「で、ちょっと聞きたいんだけど」

 ノアがぽつりと呟いた。「ブラザー・ミヨシがついさっき、あんたという存在を軽やかに追い越していったけど。一体どういう育て方をしたの、あんたは」


 は? とケファは目が点になった。


「待った。何を言っているか分からない。というか、よく考えたら会ったのか? ヒメに」

「会った。悪魔祓いのやり方を教えてほしいって言うから、プリンを代償にサンプルを見せてあげたら、たったの三回よ。三回私のサンプルを見ただけで悪魔祓いをマスターした」


 ノアが動揺するのも無理はなかった。


 あの後、ノアが三善に悪魔祓いを実施している姿を見せたところ、三善はもう二回同じやり方を見せてくれと言う。言われたとおりに再現すると、三善は納得したようにプリンの容器を置いた。


 ――なんとなく分かった。つまり『悪魔祓い』っていうのは、準秘蹟にあたるんだね。


 そう言い、三善はその場で『悪魔祓い』を見よう見まねで実行した。それをほぼ完璧にこなしてしまった彼は、一度小さく首を傾げると、何かが納得いかなかったのだろう。ぽつりとこのように呟いた。


 ――こうじゃないな。こっちかな。


 そしてもう一度能力を行使する。先ほどは及第点ではあるものの荒さが目立つやり方だったが、今回はそのブレが完全に消え失せていた。並の司教以上の精度で、彼は祓魔する。それを目の当たりにしたノアはこのとき思った。


 なんでこの子、まだ司祭なんかやっているんだろう。


 ケファは少々頭を抱えていたが、そののちにようやく口を開いた。


「ああ、あいつならそれで十分だ。見て分かるものであれば大体は出来る。下手な講釈を垂れるより断然そっちのほうがいい」

「なんか、真面目に修行するこっちがアホみたいに思えたわよ」

「俺もちょっと、今、心が折れかけた……」


 悪魔祓い通算二五回目の再試にして二六回目の試験待ちをしているケファが泣きそうになっていた。


「優秀な弟子を持つと大変ねぇ」

「お、おう……」


 さすがにこれは優秀すぎるだろ、とケファは色々言いたいことがあったが、それを言うべき相手ではなかったので、なんとか腹のうちに収めておくことにした。

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