第一章 (6) いいお手本
「基礎だけなら教えられるけど。どうする?」
ノアがぽつりと呟いた。その言葉に、三善は思わず驚きの声を洩らす。
「ホセからも声をかけられていたの。アメの研修で少なくとも二か月くらいは日本に滞在する予定があるし、時間を見つけて教えてやってくれないかって」
「ほ、本当?」
「でも、ふた月でできることってほんの僅かよ。さわりのさわりくらい。だからあなたに直接会ってみてから考えようかと……」
「お願いします」
三善がはっきりとした口調で言い、頭を下げた。驚きのあまりノアは思わず目を丸くする。
「なにも頭を下げなくても」
「二ヶ月、頑張るから。教えてください」
そうは言われても。ノアが微かに唸ったところで、三善がさらに追撃する。
「そのかわり、僕が出来ることはなんでもやります」
そこまで言われてしまってはしょうがない。ノアは暫し逡巡していたが、彼女の中で答えが出たのだろう。「それじゃあ」と試すような口ぶりでノアは言った。
「ちょっとお願いがあるんだけど」
「はい」
そこでノアが言い出したことは、実に意外なことだった。
***
「買ってきました。これで間違いないですか」
軽い息切れをもよおしながら、三善はノアに紙袋を差し出した。乱れた髪にぐちゃぐちゃになった聖職衣。散々もみくちゃになった形跡が見られるが、なんとか生還したといった風である。
ノアはそれを受け取り、中身を確認する。
「ああ、これこれ! 本部に来たら一度は食べておきたかったのよね」
ノアが言い出したのは、こんな内容だった。
――本部の購買で売っている瓶入りのプリンを食べたい。お金は出すからふたつ買ってきて。
しかしこの代物、簡単に手に入るものではない。毎日午前と午後の二回に分けて販売されるそれは、開始八分で売り切れるほどの人気商品なのである。本来は観光客向けに作っていたものだが、あまりの評判の良さに本部でも取り置きするようになったのが事の始まり。以降、特定の時間帯になるとやたら購買が混むので、今まで三善は何となく避けていたのだが。
この日三善は午後の回に並ばされ、必死の思いでなんとか購入してきたという訳だ。
「私が行くといつも売り切れなのよね。現物は初めて見た。ちょっと感動してる」
「僕も初めて見ましたよ」
呆れ交じりに三善が言うと、ばつが悪そうに首筋をかいた。確かに購入するにあたり体力気力共に削がれる思いをしたが、プリンはプリンなのである。もっと厄介かつ面倒なことをご所望されるかと思っていた三善は、本当にこれでいいのかと不安だった。
「はい」
ノアが三善にプリンを差し出していた。確かにふたつ買ったが、それはどちらもノアにあげた気でいた。三善はきょとんとして、プリンとノアとを見比べる。
「食べないの?」
「え、僕?」
「あなた以外に誰がいるの」
「ああ、じゃあ遠慮なく」
こうして苦労して手に入れたプリンのひとつは三善の手に渡り、資料室で二人並んで口に運ぶこととなったのである。
おいしそうに咀嚼するノアの横で、三善は少々微妙な顔をしている。
「なんでプリン」
「私が好きだから」
ノアははっきりとした口調で言った。「あなたは何が好き?」
「ホットケーキ」
「ああ、あれもおいしいわね」
優しい甘みが何とも言えない、と愉しげな彼女の言葉に激しく同意する三善である。
「なんだかんだでケファに焼かせたのが一番おいしいっていうのが癪だけどねー」
「うん?」
三善が怪訝そうな顔をしたので、ノアは「ああ」と小さく頷いた。そして土岐野の時と同じように、自分がケファとは大学時代の友人であることを伝えた。
「友人というか、半ばパシリにしていたけど」
彼女がなにかとんでもないことを口にしているが、それは敢えて聞かないでおくことにした。
「あなたを見ていると、何だか昔のあいつを見ているようで、ついつい構いたくなるのよね。ごめんなさい。でもあなたたちはとてもよく似ているわ」
ノアはスプーンを動かす手を止め、三善へ向き直る。
「あなた、今いくつ?」
「もうすぐ十六歳になります」
「そう。あなたの十六年は、人との関わり合いによって成り立つ一縷の歴史と考えていいでしょう。その歴史の流れの、一番先頭にいるのが今のあなた。今あなたはとてつもない困難に立ち向かおうとしているけれど、大丈夫。あなたの今までの『関わり合い』が最終的になんとかしてくれる。だから、本当に困ったときは立ち止まって、振り返りなさい。そこから見えるものが確かに『ある』わ」
なんてね、とノアはおどけて見せた。
「私は少し後悔しているの。これと同じことを、昔のケファに言っておくべきだった、って。だからと言っちゃなんだけど、あなたに伝えておくわ。その方がきっと有益だと思うから」
「それは、なぜ?」
「そうね」
三善の問いに、ノアは少し考えて見せた。「あいつにも私にも、色々あるってことよ」
「ふうん」
三善は曖昧な返事をし、つるつるとしたプリンをスプーンですくった。
「大人は色々あるってことですね」
「そうね。子供にも色々あるけど、同じように大人にも色々あるってこと」
ところで、とノアが口を開いた。
「あいつ病院に行ったんですって? また体調崩して……」
「そうなんですか?」
三善がきょとんとして首を傾げる。「昨日“大罪”の対応に出かけたきり戻らなかったから。怪我でもしたんですか」
ノアが怪訝そうな表情を浮かべたのを、三善は見逃さない。ただ、なにかあったのだという漠然とした不安が脳裏を過る。しかし、ノアはそれ以上何も追及しようとはしなかった。
「――そう。それならいいの」
さて、とノアは立ち上がる。既にプリンの容器は空になっていた。
「時間ももったいないし、あなたは食べながらでいいわ。私の『能力』を見てもらおうかしら」
「能力?」
「言わなかった? 私は一応『アレクサンドリアのカタリナ』の二つ名を持つ『釈義』能力者よ」
そうでなければ先生なんてやっていない、と彼女は言う。
「私の能力は少し特殊でね。一般に司教クラスまでの聖職者が持つあらゆる能力を『すべて模範的に』発動する。つまりは人間テスター、生きた見本ってこと。だから私は、実戦に出ない代わりに聖職者のトレーナーなんかをやっている訳。プリンの代金分、私はあなたにとっていいお手本になるわ」
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