第一章 (5) 返品

 扉が開く音が耳に入り、三善ははっと身体を震わせた。


 この資料室は一応公共の場ではあるので、誰が来ても全くおかしくはない。しかし、三善がこの場所に居座り始めてから数週間、やって来たのはケファやホセというごくおなじみの顔ぶれのみだった。おかげで半ば貸切の状態を満喫していた三善だったが、いよいよこの無人記録が打ち破られる日が来たようだ。


 ――可能な限り、面倒な人でなければいいが。


 思わず三善は息を飲んだ。

 軽やかな足音が近づいてくると思ったら、その音は三善のほど近くで止まった。


「ああ、こんなところにいた」


 三善の前に現れたのは見知らぬ金髪の女性だった。服装からして修道女であることは違いないが、修道女とほとんど縁のない生活を送っている三善は、明らかに自分を探していたと思われる彼女に思わず狼狽した。


 年齢は二〇代中頃だろうか。エメラルドを連想する鮮やかな緑の瞳が、その端正な顔立ちにとてもよく似合っている。


 そんな彼女は三善のすぐ隣までやってくると、ぱりっとした明るい声色で尋ねた。


「お勉強しているところ、邪魔してごめんなさい。あなたが姫良三善かしら」


 そう尋ねる者にいい人はほぼいない。


 三善は微かに警戒しつつ、小さく頷いた。その様子を見て、彼女は三善がやけに警戒している理由を察したのだろう。両手を目の前で振って見せ、敵意がないことをアピールした。


「そんなに警戒しなくても取って食ったりはしないわ」

 彼女は苦笑しながら言う。「ああでも、なるほど。アメの言う通り、確かに不思議な雰囲気ね、あなた」


 今、アメといったか。


 その名に覚えがある三善は、はっとして顔を上げる。


「はじめまして。私はノア・オッフェンバック。アメ・トキノの先生をやっています」

「雨ちゃんの? ……ああ、すみません。あなたがシスター・ノアだと分からなかったので」


 彼女――ノアは頷き、ちらりと机の上に目を落とした。教典が散乱している。主に司教試験に出そうな範囲の論文集に、ラテン語の教科書か。そのラインナップを見て、彼女はケファが先ほど車内でしきりに三善のことを気にしていたのを思い出した。なるほど確かに、この内容ならばあの男が気にしないはずがない。


 三善が右手を差し出した。軽い握手を交わすと、三善は不思議そうに言った。


「それにしても、なぜこんなところに? 修道女の研修先であれば、真珠星スピカの方ではないですか」


 修道女が使用する施設は、この北極星とほぼ対局側にある通称『真珠星スピカ』になる。もちろん女性の“釈義”能力者であれば北極星を利用することは全くない訳ではないが、似た施設が真珠星にもあるはずなので(さすがの三善もこのあたりはよく知らない)、わざわざこの場所に来る必要はほぼないはずだった。


「半分正解で、半分はずれね。私はあなたに用があって来たの」


 そう言い、ノアはカバンから手のひらに収まるくらいの箱を取り出した。それを三善に渡すと、何のことか分からずに三善は首をかしげる。


 そっと開けると、その中に入っていたのは新品の銀十字だった。


「二年前にケファが発注して、それからなかなか取りに来ないから。教皇庁から届けて来いと言われていたのよ」


 三善はそれをしばらく眺め、ケースの蓋を静かに閉じた。


「これ、ケファに持って行ってくれますか」

「なぜ? それはあなたのものよ」

「僕はもう持っていますから」


 ノアが目を向けると、確かに三善の首には傷だらけの銀十字が下げられていた。祭器にあたるものをこれだけ乱暴に扱う人物をとてもよく知っている彼女は、三善が言わんとしていることをすぐに理解したらしい。


「なんとなく事情は分かった。了解しました、それじゃあこれはあいつに持っていくわね」

「お願いします」


 三善が微かに微笑んだのを見て、ようやくノアは安心したらしい。ふっと微かに微笑むと、三善の隣に腰掛けた。


「ああ、どんな子かと思ったけど、何か納得したわ」

「納得、ですか?」


 怪訝そうに三善が尋ねたので、ノアは「気にしないで」と軽く手を振って見せた。


「いや、ジェームズに喧嘩売ったって聞いたから、一体どんな命知らずな子なんだろう、と」

「ああ……、そういう意味ですね」


 三善は渋い顔をしつつ言う。自分でやっておいてなんだが、あの一件についてはもう放っておいてほしいと思う。後悔はしていないが、まさかこんなことになるとは思っていなかったのだ。


 それはともかく。三善はじっとその紅玉の瞳を宙へ向け、のろのろと口を開いた。


「――あの時は、そうするしかなかったんです」

「うん?」

「ホセとマリアを救うには、そうするしかなかった。僕ができる『ゆるし』は、それくらいだったから」


 三善はそれっきり口を閉ざしてしまい、その件について何も言及することはなかった。


 ノアはその様子になにを感じたのだろう。しばらく同じように黙ったかと思えば、急に声のトーンを明るくして言った。


「それと、もう一つ用があったんだけど」


 ノアの言葉に、三善はきょとんとする。


「あなた、悪魔祓いを誰から教わるか決まってないんでしょう?」

「え? あ、はい。ホセでいいかと思ったら、どうやら体裁上あまり良くないみたいで」


 確かに、先日の一件でホセと三善の関係が明るみに出たようなものなので、身内が担当するのは少々都合が良くない。しかしながら三善は他につてがなかったので、どうしようかと頭を抱える羽目になったのである。誰かに頼み込もうにも、相手を間違えると大惨事にしかならないこの状況、一体どうしたものかと考えあぐねているところだった。

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