第四章 (8) 終わりを告げる歌
三善はその瞬間腹を決めた。
彼はマリアを力いっぱい抱きしめると、それから身体を投げ出すかのように一気に急降下した。
塩の翼は途中で全て砕け散った。もう身体を守るものはなにもない。しかし、不思議と怖くなかった。
マリアの体は、驚くほど熱い。炎が全身を焦がし、灰となって朽ちてしまうかと思った。しかし今ここで意識を失う訳にはいかない。歯を食いしばり熱さと痛みに耐えると、三善はひたすらに願った。
彼女が少しでも癒されるようにと。
「教皇、なんで」
「なんで、って」
三善はきっぱりと言い放つ。「君がいなくなるのは、嫌だ。君がよくても僕が嫌だ。僕が好きだと思う人が大切にしている『人』を大事にしてなにが悪い」
その言葉に、マリアの体が大きく震えた。
「初め会ったときは、ごめん。君に少し嫉妬した。ホセを取られた気がしたから。だけどそれは決して君を壊す理由にはならない。そう思う」
三善は胸の内にいるだろう「あの人」に問いかける。彼女を救うための力を貸してほしい、と。
みよし、とマリアの唇が微かに動いた気がした。しかし、その声は三善に届いていない。空を切る音が彼らの対話の邪魔をする。
「願わくは、君の生が
願い事は三回。昔、誰かから聞いた言葉を思い出す。その姿は蜃気楼のように揺らいでいて、今もなお思い出すことはない。だがその声が、その人物が誰なのかを暗示しているようにも思えた。
夢の箱庭の、たったひとつこぼれ落ちた希望だ。
「『Sanctus,Sanctus,Sanctus』」
「『Agnus Dei,qui tollis peccata mundi;dona eis requiem sempiternam.』」
その時だった。マリアの身体がぴくりと動く。
「
三善が改めて秘蹟を展開しようとしたのを、その声が引き止めた。
***
その時、彼らは聞いたのだ。
終わりを告げる歌を。
***
「――Amen.」
歌い終えたホセの声は微かに震えていた。
彼の歌は“初期化”を起動するトリガーでもあったのだ。
このたったひとつの決断をするために、彼は多くの犠牲を生み出した。本来“嫉妬”を制圧し未来あるプロフェットたちの手助けをしなければならないはずの自分が、恣意に身を任せたためにこのような結果となってしまった。
マリア、ごめんなさい。
ホセの唇が微かに動く。
彼女はほんの少し悲しそうな顔を浮かべ、それから何かをぽつりと呟いた。それを耳にした三善は、ただじっと彼女の過熱した身体を抱きしめる。
――さようなら、わたしの主人。
そのこめかみから、いつしか星型の烙印は消え去っていた。
三善は地上へ降り立つと、マリアをゆっくりと瓦礫の上に横たえてやる。
彼女は随分と汚れてしまっていた。ビスク・ドールのように白く美しい肌は煤と血でべったりと染まり、淡い色のワンピースもぐちゃぐちゃになっている。ただひとつ、真中からぽっきりと折れてしまった銀十字だけが唯一まぶしいくらいに美しい輝きを放っていた。
傍らにホセがゆっくりとしゃがみこみ、彼女の頬を手の甲でゆっくり撫でてやる。今にも動き出しそうだった。徐々に冷めてゆく体温がようやく彼らを現実へ引き戻す。
ケファも『釈義』を完了させ、ようやく地へ足をつけた。唇からこぼれる荒い息を無理やり押し込めながら、彼の決断を静かに眺めている。
「……ヒメ君。ケファ。ありがとう」
ホセがぽつりと、本当に小さな声で言った。「マリアを傷つけないでくれて、ありがとう」
これはただの我儘だと、そう分かってはいたのに、自分で手を下すのが怖かった。怖くて怖くてたまらなかった。どうしてこんな気持になるのかも分からなかった。
ただ、もしもこの子を失う時が来るのなら、その時は自分もこの世から消えるべきだと漠然と思っていた。今も、そう思い続けている。
あの日ホセが立てた誓いは、決して違えることがなかった。
――あなたは私のためのプロフェットですが、その前に、私はあなたを一人の女の子として扱いたい。
「それでも、お前は自分の手で終わらせただろう」
ケファがおもむろに口を開いた。
「……ああ、この歌を歌う日が、こんなにも近いとは思っていなかった――」
ホセが俯いた。ぱたぱた、と足元に水滴が落ち、そして大地にゆっくりとしみ込んでいくのが分かった。
三善はそっとマリアの横に跪き、髪をゆっくりと梳いてやる。そして、最後に彼女の手に触れた。炎で焦げた跡から、僅かに内部の機械部分が覗いていた。赤い配線が、銀のパーツが、深淵からじっとこちらを覗いていた。
とても不思議な気持ちだった。きっと修理すれば彼女の身体は動くのだろうが、彼女はすでにどこにも「存在しない」のだ。胸の内で、ひとつの疑問が沸き上がる。
生命とはなんだろう。
三善が持つ概念では、それらを全て説明することができなかった。三善の中で彼女は確実に“生きて”“この場所”に“存在”していた。それなのに、彼女は初めから「生命」の理から外れていたのだと言う。
この自分の中にあるもう一人の“自分”もそうだ。これですら、本来は死んでいるはずのものだと人は言う。本来そこにあってはならないものとして語られる。それなのに、三善は、三善だけは、確かにここに「在る」のだと認識できるのだ。
ふと、頭上から何かが落ちてきた。三善はゆっくりと宙を仰いだ。
「あ……」
青い花弁だった。雪のように降り注ぐそれは、まるで空のかけらが地上へ降り積もってゆくようにも見えた。
空の分け前を享受して、再び三善は瞳を閉じる。
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