第四章 (9) 私だけの責務
扉をノックする音に反応し、ホセはふと顔を上げた。
ちょうど布団の上で書類整理をしていたところだった彼は、一旦万年筆を置き、「どうぞ」と声をかける。静かに引き戸が動いた。
「ブラザー」
顔を覗かせたのは帯刀だった。ということは慶馬も一緒か、と思ったが、どうやら彼はひとりらしい。帯刀はゆっくりと戸を閉めると、扉の脇に畳んであったパイプ椅子に手をかけ、ホセの脇に置く。
「こんな時に仕事なんかしなくていいだろう。ゆっくり休め」
「ただ寝ているだけというのも暇なんです」
広げたパイプ椅子に腰掛けている帯刀に、ホセは不思議そうに尋ねる。
「美袋さんは? 一人なんて珍しいですね」
「あー、ちょっと」
帯刀は実に歯切れの悪い様子でごにょごにょと言い訳をしている。その様子から察するに、勝手に慶馬の側を離れたのだろう。いつも凛とした姿勢でいる彼がこれほどまでに動揺することは滅多にないので、ホセは思わず苦笑した。
「それで、体調はどうだ?」
「全治一ヶ月らしいですが、多分私なら三週くらいで治りそうな気がします」
あの後ホセはすぐに病院に運ばれ、腹部を数針縫っていた。あと少しで失血死するところだった、と後日担当医から聞いた。あの日ホセが感じていた「これは走馬灯かもしれない」という感覚は、あながち間違いではなかったのである。
――帯刀と慶馬が彼らの元に到着した頃には、既に全てが終わっていた。何があったのかを尋ねる帯刀に、三善は一言「ごめん」と言ったきり、詳細を語ろうとしない。代わりにケファが、「三善が“嫉妬”を浄化したのだ」と説明した。そして、マリアが突如暴走し、データの初期化を行ったことも全て彼の口から聞いた。
「“嫉妬”の件、本当にごめんなさい」
ホセは微かに眉を下げ、申し訳なさそうに首を垂れた。「生け捕りにするつもりでいたのに。私のせいです」
「それは気にしなくていい」
それに対し、帯刀はきっぱりと言った。「先に言っておいた通り、無理はしなくて良かったんだ。俺たちが生きている限り、何度でもやり直せる。それに、」
そこまで言いかけて、帯刀は口を閉ざした。
咄嗟に「このことはホセに言わない方がいいだろう」と判断したのである。
まさかあの日、エクレシアを裏切った末『聖戦』の頃に死亡したはずのトマスが現れた、だなんて言ったら、ホセは動揺するに決まっている。今の彼に無駄な心労はかけさせたくなかった。それに、トマスは帯刀に「『契約の箱』の所在を確認している」。彼のこの行動のおかげで、帯刀は確信した。
彼らは、次は確実に『契約の箱』を奪取しに来る、と。
それに? とホセが次の言葉を促す。
「……それに、俺たちには切り札ができた。みよちゃんが『秘蹟』を使えるなら、以前よりもっと“大罪”に接触しやすくなる。チャンスは何度も巡ってくるだろう。だから、あれは決して徒労ではなかった。あなたがたには本当に感謝している」
強いて言うなら、あの日の三善の様子がおかしかったことが気がかりではあるが。
なにかあったのかもしれないが、それについて三善は誰にも話していないようだった。三善のことだから、取るに足らない内容と判断したのかもしれない。しかし、確かにあの日以降三善の態度が変わったことは確かだ。
そうでなければ、いきなり『あんなこと』を言い出すとは到底思えない。
「それで、ブラザー。マリアのことなんだけど」
「ああ、明日評議会なんですよね」
帯刀の問いに、ホセはあっさりとした口調で返した。「私はこの通りなので、代理を立てろと言われています」
そう、明日マリアに対する評議が枢機卿団の中で行われるのだ。議題はA-Pの暴走について。元々「A-Pについて何か不測の事態が発生した場合はすぐに廃棄処分」という取り決めがなされていたそうだが、帯刀が「あくまで彼女は“嫉妬”の能力に影響されたのだ」と枢機卿団に直訴したのである。もちろん、帯刀だけの主張であれば取り付く島もなかっただろうが、科学研が全面的に帯刀の主張に賛同したことで事態は大きく動いた。彼らはマリアから採取していた数々の記録を元に、“嫉妬”による星形の烙印がどのようなメカニズムで機構に影響したのかを定量的に証明したと言う。つまり“七つの大罪”が持つ能力の一つを、科学的根拠を元に解析できたという訳だ。彼女が“大罪”に関わることで、より大聖教が優位になる情報が得られるのではないか、というのが科学研の主張である。それは確かに、枢機卿団としても魅力的な内容だった。
そんな経緯があり、マリアの処分は一旦評議会に委ねられることとなったのである。
帯刀の口からは彼にそこまで詳しい経緯を伝えてはいなかったが、おそらくA-P関係者から説明されてはいるのだろう。ホセの様子は非常に落ち着いており、むしろ淡々としていることの方が気になった。
「でもまあ、出るつもりではいますけどね。私が出ないでどうするんですか」
「確かに」
帯刀は小さく頷いた。
「なあ、ブラザー。あなたは、マリアをどうしたい?」
その問いに、ホセはぴたりと動きを止める。彼の独特なアイボリーの瞳に、このときようやく微かな動揺の色が見受けられた。
「それは、どういう意味でしょう」
「プロジェクトの意向とか、そういうのは無視して、率直な考えを聞きたい」
帯刀の言葉に、ホセは彼が何を言わんとしているのかすぐに理解した。暫しの逡巡ののち、のろのろとした口調で答える。
「……もしも、ゆるされるならば。私はあの子のことを助けたい。あの子に罪はないのです」
ホセは淡々とした口調で続ける。「こんな言い方は
なぜそんなことを? とホセが怪訝そうな表情で尋ねる。
帯刀は小さく頷き、それから首を横に振った。
「何でもない。でも、それを確認できて本当によかった」
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