第四章 (2) 願い事は三回

「あなたには、いっぱい大事なものがあるのね」

「そう、ですね。守るべきものはたくさんあります」

「私には、あなたしかいないわ」


 それを聞き、ホセは思わず目を丸くした。


 ホセが妙な顔をしたので、マリアはすかさず理由を尋ねてくる。なにかおかしなことを言ったのか、とも。彼女はホセの感情の推移を必死に理解しようとしているのだ。


 ならば、誠意を持って答えるべきだ。


 ホセは言いたいことをすぐに整理して、このように返した。


***


「『――今のあなたには、私しかいないかもしれません。でも、年月を重ねれば、もっともっとあなたと世界の繋がりは深まります。守るべきもの、ではなく、守りたいと思うものがいずれできるかも』」


 ホセはやっとのことでそう言った。


 青い炎の中、徐々に酸素が減りつつある。ぼんやりとするこの思考は、出血多量によるものなのか酸素不足によるものなのか、まるで判断がつかなかった。


 マリアはホセのその言葉を聞き、ぴくんと肩を震わせる。


「司教」

「『だから、たくさん笑ってください。たくさん怒ってください。時々は泣いてもいい。あなたは私のためのプロフェットですが、その前に、わたしはあなたを一人の女の子として扱いたい。願わくば、あなたの生が真に正しくありますよう。そのためにわたしは力を尽くしましょう。これから、どうぞよろしくお願いします』」


 ――これが、マリアが初めて会った日にホセが言ったことだ。あの日のことはとてもよく覚えている。マリアが言った「私にはあなたしかいない」という言葉が強烈に胸に焼き付いて離れない。それだけ衝撃的な出来事だったのだ。


 だからホセは、己に対する誓いとして、その時自分が言ったことを全て覚えていることにした。


 この青い炎がすべて燃やしてくれたなら。自身の血も肉もすべて燃やしてくれたなら。心すらその中で燃え尽きてくれたら。自身の分身である彼女と最も良い終わりを迎えることができるなら。


 それはとても幸せなことのように思う。今の彼女なら、それを願うかもしれない。


 しかし、それは正しくないとも思う。


 いきなり長く話したものだから、体力が思いのほか削られてしまった。そっと瞼を閉じると、マリアの手の冷たさをはっきりと感じることができた。


「ごめん、なさい。マリア……」


 突然ずきりと胸に刻まれた赤い十字の痕が痛む。当然のことだった。本来『喪失者』と認定されたホセが、無理に己の先天性釈義を行使したら嫌でもそうなるに決まっている。現役の頃と比べたら上手に能力を行使することはできなかったが、それでも“嫉妬”を驚かす程度には使うことができた。それだけで満足だった。


 ふと、ホセは瞼をこじ開ける。


 今彼に強く抱きつき頬を寄せる亜麻色の髪をした少女は、しとしとと涙を流していた。雨粒のような細かい滴が長い睫毛を濡らし、頬を伝う。先程まで幸せそうに笑っていたと思ったのだが、どうしたのだろう。


「――司教」


 マリアの鈴の音のような声が耳に届く。こんなにも近くにいるのに、どうしてだろう、その声は随分と遠くに聞こえた。


 どうしましたか、と尋ねると、彼女はうつむいたまま言った。


「ごめんなさい。お腹、刺してしまってごめんなさい。あのひとの言うことに耳を傾けてしまってごめんなさい」

「……マリア……」


 ぎゅ、と上着の裾をつかむ感覚があった。


「だから、私を、初期化してほしい……です」


 心臓がはねた。


 それは、万が一に備えてA-Pに搭載した強制終了システムのことを指す。通常の操作で終了できない場合――例えば暴走してしまった場合など――、強制的に全データを消去し、A-P全機能を停止させる。もちろん再び電源を入れれば動くのだが、一度データを初期化してしまうとそれまでにA-Pが蓄積した記憶は全て抹消されてしまうのだ。つまり、今彼女を初期化してしまえば、次に出会うマリアは同じ形をしたまったくの「別物」になる。だからホセは、先程システムが暴走していることに気づいても決して初期化しようとはしなかった。


 抱きついたままマリアは「お願い」と駄々をこね続けている。


 そもそも、このように饒舌になること自体「異常」なのだ。もう彼女は、ただのアンドロイドなんかじゃない。こんなことを、科学研はプログラムしていなかった。彼女は既に生物と同等の思考を持っていると確信を持って言える。


 だからこそ、ホセは彼女の要求を受け入れることができなかった。


「それはできません」


 ホセは首を横に振るが、彼女は納得できないようで「どうして?」と尋ねてくる。


「だって私、失敗した」

「私だって……失敗しています。おなじです」

 ホセは残る力を振り絞る。「あなたを、そんな気持ちにさせた、わたしが、わるい」


 どう説明しても、きっと彼女は納得してくれないだろう。そして、きっと他の誰もがこの感情を否定する。今後も彼女が暴走することがあるかもしれない。そんな危険なものを運用するなど、一体誰が許すだろう。


 ホセはマリアの身体を強く抱きしめ、長く息を吐き出す。


 ならば、このまま二人で燃えてしまえばいい。とうに覚悟はできている。


 認められないならば、そのまま消えてしまおう。それが彼女の慰めになるのなら、喜んで死に行こう。


「『Sanctus,Sanctus,Sanctus』」


 願い事は三回。もう意識が遠ざかっている。視界は白く濁り、ほとんど何も見えていない。


 その時だった。


「何をやっているんだ! お前は!」


 聞きなれた声が耳に飛び込んできたのは。

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