第四章 (3) 怒り

 その聞きなれた声を耳にしても、もう首を動かして声の正体を確認することすら億劫だったので、ホセは諦めて目を閉じた。おそらく走馬燈とか幻聴とか、そういう類のものだと勝手に推測する。三十五年生きてきた中で「死ぬかもしれない」と思った経験は何度もあるが、そんな幻聴を耳にするのは今回が初めてだ。


 体から徐々に力が抜けていく。ついに上体が傾いたので、自分でも「あ、まずい」と思った。このままではマリアもろとも倒れてしまう。さすがにこの青い炎の中に突っ込むのは避けたいところだった。だが、もう身体は動かない。


「『秘蹟Sacramentum展開』」


 少年の声が遠くの方から聞こえてくる。また幻聴だ。困ったな、と思ったのと同時に、全身を炙っていた炎の熱が徐々に弱まるのを感じた。


 ホセはのろのろと瞼をこじ開ける。


 霞む視界の中、真っ白な翼を背負った天使が二柱揺らいで見えた。――否、天使なんかじゃない。その正体に気づいたとき、ホセの思考はようやく現実に引き戻された。


 莫大な神威を纏う少年――三善が、じっと彼らを見下ろしていた。その表情は完全な無だ。怒っているようにも、興味を失っているようにも見える。実に冷ややかなまなざしだった。そんな彼の姿を目の当たりにし、ホセは「あれは三善ではなく、大司教だ」ということに気が付いた。ならば、先ほどの祝詞も合点がいく。

ホセがこちらを見ていることに気が付いた三善は、すぐにぷいとそっぽを向いてしまった。そして、この場所にいるはずの「もうひとり」を探し慎重にあたりを見回している。


 その姿を見て、ホセは微かに違和感を覚えた。――なんだか、大司教の聖気が時々途切れているような気がする。自分の感覚が既に信じられなくなっているホセは、気のせいだろうと結論を出した。


「このバカ!」


 それと入れ替わるように、ケファがホセのすぐ近くまで降り立つ。そして容赦なく一発ぶん殴った。


 その衝撃で、ホセは完全に目が覚めた。一旦は鈍ったと思っていた痛覚がまた蘇る。頬も、腹部も。それでようやくまだ生きているのだと実感し、彼はただ乾いた声を上げて笑う。


「はは……なんだ、お迎えかと思ったのに」

「まだ天国の門は開けてやらねぇよ。教皇が聖火で炎の中和を行わなかったら、今頃お前ら消炭だったぞ」


 ケファが吐き捨てるように言うと、急遽己の釈義を展開し、ホセの傷口を岩塩に似た成分でがっちりと固めてやった。多少しみるだろうが、止血くらいにはなるだろう。別にいいのに、とホセが肩をすくめたのを見て、ケファが彼のアイボリーを凝視した。


「まさかお前、死ぬ気じゃなかったろうな」


 核心をついた質問にホセが口ごもる。このアメジストの瞳には、昔から嘘がつけないのである。全てを見透かすような澄んだ色、好きな色ではあるが一番恐れている色でもある。


 そんな様子にケファはすっかり呆れてしまったらしく、わざとらしいため息をついた。


「あー、そんなこったろうと思った」


 ほら、と彼はホセをその場に座らせ、代わりにマリアを抱きかかえる。彼女は抵抗するまでもなく、ただされるがままになっていた。


「あっ」

「一体何があったかは知らないが、“嫉妬”でなく自分を焼くなんて、一体何を――」

「ケファ、駄目です。彼女から離れて」


 え? とケファが問いただすも、時すでに遅し。


 その頃には、彼の腕の中でマリアは『釈義』を展開していた。彼女の手に握られたのは、先ほどのような巨大な槍ではなく、細身のナイフである。


 そしてそれをケファの首筋にぴたりと当てると、


「――ごめんなさい」


 マリアは涙をこぼしながら言った。


***


「待って!」


 少年の声に反応し、三善はその身を翻した。


 彼が目にしたのは、同じ年頃の少年――“嫉妬”である。彼は軽やかに瓦礫の上を駆け、三善のほど近くまでやってくる。左肩は既に何らかの原因で損傷しているように見えたが、三善は心底どうでもいいと思った。おそらくホセがやったのだということは容易に想像できたからだ。


 なんにせよ、探していた人物がわざわざ自分からやってくるとは手間が省けたも同然。ホセやマリアがあのような状態になったのは確実にこの少年のせいだと踏んでいたので、近くにいるとは思っていたが。


「――ああ、なんてことだ」


 彼は三善に向かって、悲しげに叫ぶ。


 三善はただ無言で少年の深い青の瞳を睨めつけていた。いつ攻撃されるか分からない状況のため、三善はそれなりの間合いをとりつつ高度を下げ、“嫉妬”と同じ灰まみれの瓦礫に着地する。それと同時に背負っていた翼は灰となり、風に流されていった。


「あなたとこんなところで出会うとは。ヨハネス」


 “嫉妬”は今にも三善に飛びつきそうな勢いだったが、三善がそれを牽制した。

 三善はまだ、こんな状況になろうとも“嫉妬”を生け捕りにすることを諦めてはいなかったのだ。帯刀からは「無理することはない」と言われていたが、それも何だか癪に障る。

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