第一章 (13) こちらの気も知らないで
ぴくりとホセの眉が動いた。そのまましばし口を閉ざし、じっと言葉を選んでいる。トマスの目には、彼が何やら迷っている風にも見えた。ようやく結論が出たのか、ためらいがちにホセが口を開く。
「……、なぜ今その話になる」
「再確認。ただそれだけだ」
トマスはため息交じりに言う。「どうも、うちの“
「分からない」
ホセがきっぱりと言い放ったので、トマスは思わず「はっ?」と目を剥いた。そして、お前は何を言っているんだとばかりにホセに詰め寄る。その剣幕に、さすがのホセも狼狽する。
「どういうことだ」
「私はあの後、アレが確実に誰の手にも触れぬよう『ある人物』に託した。その後の所在は分からない」
「その人物とは」
「お前に言うことではない。少なくとも枢機卿ではないことは確かだ」
そこまで聞くと、トマスはホセの目の前で脱力した。その場にへたり込むと、何やらぶつぶつと呟き、必死に考えをまとめている。
「OK、おーけー。お前がヘマをやらかしたことはよく分かった。まぁ、想定範囲内だけど」
そう言われるのは心外である。ホセは内心苛立っていたが、少しだけ我慢し、「どういう意味だ」と尋ねる。
「あの時は俺もお前に刺されていたから、確実に処分しろだなんて言ってる場合じゃなかったもんなぁ。仕方ないかぁ。お前なら分かってくれると思ったんだけど、やっぱり人間は本当の意味で分かり合えないものだね。全く」
トマスは大きな独り言を言い、それじゃあ、とようやく立ち上がる。
「次のアクションの決まりだ」
深海にも似た瞳は、ホセを見つめて穏やかに揺れている。この表情に、ホセは何となく彼が言わんとしていることを理解した。
「……姫良助祭がどうした」
勘が良すぎるのも考えものだね、とトマスが言う。そして肩をすくめるオーバーな動きの後、手にしていた銃の安全装置を再び解除した。
カチリ、と重たい音が静けさの中ではっきりと響いた。
ホセはその音をただじっと押し黙って聞いていた。あの音は大分前に何度も耳にしていた。心のどこかで「ああ、懐かしいな」と考えている自分がいる。彼が白い髪の隙間から笑みを浮かべ、まっすぐにそれを構える姿が容易に想像できる。
彼は銃を扱う際、一度だけ、黙祷を捧げるのである。
神と聖霊と、そして今から天に召される新たな天使たちに対して。
その癖すら熟知している自分が愚かだと思う。そもそも、彼が本物の“トマス”であるはずがないのだ。それなのに、どうして否定しきれないのだろう。
いつまでも引きずるのはよくない、と思い直しているうちに、彼の銃口は再びホセの、今度は胸部の中央に当てられていた。逃げようがない。今度撃たれたら、確実に当たる。
「これは保険だ。俺が相当の覚悟でこの場に臨んでいるということ、どうか分かってほしい」
彼が次に何を言い出すか、ホセは何となく予想がついていた。それが三善のこととなれば尚更だ。
「事が落ち着くまで、姫良真夜の子供を預からせてほしい」
「何故」
「そうする必要があるとたった今判断した。あの子供はもうエクレシアにも“七つの大罪”にも関わらせてはいけない」
「それは忠告か」
「警告だ」
ホセは一度瞳を閉じ、右手を彼のバレルにゆっくりと置いた。そして左手も、右手に重ねる。そのしんとした聖気をまとう姿はまるで祈りの姿であった。トマスもまた、彼の戦場での姿を思い出したのだろう。一瞬だけ動揺した表情を見せた。
「――『
その時だった。突如トマスによる“
両手で確認してみると、それは塩のかけらだった。
「マリア!」
ホセが猛る。
塩のかけらが舞う中、マリアの小さな身体がトマスに向けて突進する。
トマスに彼女の両手がぶちあたる刹那、彼女の口から洩れた言葉。
「私の
マリアの釈義が発動する。それは、彼女――否、ホセが持つ釈義の中で最も危険視されてきた、そして今も凍結されていなければならないはずのあの釈義である。
その名は――第一釈義『灰化』。
慌ててトマスが己の「釈義」を展開し、それを無効化した。何とか自分の身体は守れたようだが、銃は全て灰に転換され、塩のかけらと共に空に舞い上がった。今のトマスは完全に丸腰だ。ちっ、とトマスが小さく舌打ちする。
受け身を取り起き上がったが、その背後には既にナイフを握るホセの姿があった。頸動脈に鋭い刃が添えられており、金属独特の冷たさが肌を伝う。
「エクレシアを裏切ったお前のことを誰が信じるか」
「お前の言い分はもっともだが、ちょっとは冷静になれよ。少なくとも俺に預けてくれれば、今の状況より悪いことにはならないぜ」
降参の意を示すため、両手を挙げながらトマスは横目でホセを見る。「随分と可愛らしいお嬢さんじゃないか。戦闘人形にしておくのはもったいない」
「彼女は戦闘人形なんかじゃない」
「どう違うの?」
トマスが茶化すような口調で尋ねた。「お前とほとんど同じ能力を使うようじゃないか」
「彼女には自我がある」
「ふぅん」
自我か、とトマスが呟くと、続いてこちらを睨めつけているマリアの、真っ赤なルビーの瞳を見つめる。そして、小さく何かを呟いた。
「……こちらの苦労も知らないで」
「え?」
今のは忘れてくれ、とトマスの声がホセの耳に届くのと、一筋の風がトマスを包み込んだのはほぼ同時だった。驚きホセが一歩後ずさると、その風は彼の全身をすっかり覆い隠してしまう。そして、ひゅうっ、と甲高い風の悲鳴が鳴り止んだ頃には、トマスは完全に行方をくらましていた。
意味を成さなくなったナイフを握ったまま、ホセはぼんやりとその場に突っ立っていた。展開させていた『釈義』を完了させることすら忘れてしまっていた。
ただ、今までのやり取りが延々と頭の中を駆け巡っている。彼に言われるまで、すっかりと忘れてしまっていたことだ。むしろ、今後の人生のうちでもうお目にかかることなんかないと思っていた。
「なんで今更、『契約の箱』なんか……」
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