第一章 (8) 少女の能力

 この少女がこれほどのことをやってのけるとは、誰が想像できたろう。これにはケファも三善もぽかんと口を開け広げ、続いて地上にいるはずのホセに目をやる。彼は彼で、やりすぎたと言わんばかりの顔で灰が飛び散る空を仰いでいた。


 爆発ついでに鱗粉をも焼き払ってしまった彼女は静かに両腕を下ろし、


「前、見て」


 呆けたまま動きが止まったケファに鋭い一言を浴びせた。


 我に返ったケファは一度旋回し、剣を構える。蛾は先ほどの大爆発の際に発生した強い閃光に再び目がくらんだらしく、もがきながら奇声を上げていた。


 まずは、あれか。


 彼の切っ先は真っすぐに、蛾の瞳へと向けられる。こんなに近くにいるのに、蛾はまだ気が付いていないようである。握る柄に力を込め、ケファは一思いに突いた。


 まるで間欠泉のように噴き出した蛾の体液。生暖かいそれを全身に浴びたケファは思わず顔をしかめた。水分を吸って身体が重いし、それにひどい悪臭がした。


「このジャケット、気に入ってたのに」


 ひとまず顔をシャツの裾で拭い、剣を引っこ抜いた。先ほど羽を落とした時のように力が必要かと思いきや、ずるり、とあっさり抜けた。まもなく、トマトの皮のように角膜らしきものが剥けた。


「ケファ!」


 ようやく三善の装填が終わったらしい。その声を合図に、ケファは一度蛾から離れた。


「やれ! 俺じゃなく、そっちだ!」

「『深層significance発動』!」


 三善が哮ると、彼の左腕が白く瞬いた。それを蛾に向けて翳し、力の限り『釈義』を込める。以前聖フランチェスコ学院の講堂でやって見せた壁の生成を、蛾に向けて発動させようとしているのだ。先ほどはケファの盾として実行しようとしたが、問題の鱗粉がマリアの手によって燃やされてしまったため、方針を変えざるを得なかったのである。


 銀の津波が蛾を飲み込み、どんどん収縮してゆく。まるで繭のようだ。巨大な繭の中に蛾を回帰させているような、とても奇妙な光景だった。


 数秒ののち、その繭は完成した。鉄の繭の中に収められた蛾の鳴き声は、もう聞こえなかった。鈍色に輝くその塊は日の光を反射しながら、ゆっくりと地上に落下する。三善が軌道をコントロールしているのだ。なるべくゆっくりと地上に下ろすと、ようやく彼は一息ついた。


「お疲れ様です」

 ホセが三善に声をかけた。「ここまでやれば、多分大丈夫でしょう」


「そうだね。いつかは繭の中の酸素がなくなるだろうから、そのうち窒息するんじゃないかな」


 三善はさて、と鉄の繭を眺め、小さく唸り声を上げている。

 彼が言いたいことはとてもよく分かる。これの処分についてだ。いつまでもこんなところに置いておくわけにもいかないし、何より結構邪魔だ。だからといって、この大きさ――大型トラック並みの巨大さである――のものを運ぶのは少々骨が折れる仕事になりそうである。


 対価切れにより地上に降りてきたケファが、三善の下へ駆け寄る。彼はその場で着ていた皮のジャケットを脱ぐと、三善と全く同じことを考えたらしい。暫し難しい顔をして考えごとをした結果、


「これ、どうしたらいいと思う」


 考えがまとまらなかったようで、とりあえず質問を投げかけることにしたようだ。


 ホセは左腕の時計を確認し、


「もうじきこちらに担当者がやってきますが」

とだけ言った。どうやら事前に連絡だけは入れておいたらしい。


 なるほど、とケファは頷き、はっきりと言った。


「担当者に任せよう」


 これには三善が反論した。さすがにこの大きさのものを丸投げするのは気が引ける。せめて何か対処すべきでは、とケファを引き止めた。


「例えば、マリアにもう一度さっきの聖火で燃やしてもらうとか――」

「却下。あれを燃やすとなると相当な火力が必要だ。今、この場所でやることじゃない。それにこのクソ狸は一度加減を間違えているから、すべてを任せるのはかなり危険だと思う」


 ぐうの音も出ないホセは、このケファの意見に頷くしかできなかった。

 多少訓練してからマリアを連れ出したとはいえ、実戦ではこれが初めてだったのだ。思わず力んでしまい『釈義』を使いすぎたが、今後はもっと考えて使わなくてはなるまい。


 ふと、ホセは自分の横で袖を引くマリアに目線を落とした。彼女へ与えられた『釈義』は、やはり想定外に大きい。気を付けて使う、という程度で済むだろうか。今度は間違えたりしないだろうか。少々不安になったのだ。


「……司教?」


 マリアがきょとんとしてホセを仰ぎ、小さく首を傾げた。

 なんでもありません、とホセは優しく微笑み、彼女の頭をそっと撫でる。彼女は無表情のままだったが、それを嫌がったりせず、大人しく撫でられ続けた。


「ところで、ヒメ。俺の車は?」


 ケファが尋ねると、三善はあっけらかんとした口調で答える。


「あれだよ」


 彼が指した先は、先ほどから話題に上っている鈍色の繭である。ケファは頭にクエスチョン・マークを浮かべ、その言葉の真意を考えているようだった。


 数十秒後、まさか、とケファは青ざめた表情で呟く。


「お前、対価にしちゃったのか……」

「元々スクラップになるところだったし」

「そういう問題じゃねぇよ。お前に自転車買ってやる場合じゃなくなっただろうが」

「えっ」

「あーもう。新車だったのに……」


 その後、ようやく担当者が到着したものの、この場を収めたプロフェットが二人して泣きそうな顔をしているので、かなり不審がられたのは言うまでもない。


 ――案の定、三善の自転車購入は先送りとなった。

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