第一章 (7) 戦闘開始
祝詞を上げるのと同時に、三善は駆け出した。紅い双眸はまっすぐに宙を舞う蛾へと向けられている。大分高いところを飛んでいるが、瓦礫を踏み台にしていけば近づくことはできるだろう。三善の『釈義』は基本的に近接向きであるが故、できるだけ間合いを詰めていくことが重要になる。
まるでステップを踏むように隆起したコンクリートの山を乗り越えてゆく。あと少しで手が届くくらいには近づける――そう思ったが。
刹那、再び蛾が大きく羽ばたき、強烈な突風が三善に襲い掛かる。
三善の細い体躯はバランスを崩し、石化した樹木へと真っ逆さまに落下していく。視界を掠めるのは、あの鱗粉だ。風に煽られた際に付着したのだろう、パーカーの袖口が微かに硬化していることに気が付いた。
まずは鱗粉が先か。
三善は奥歯を噛みしめ、小さく祝詞を唱える。
「『
三善の全身が『最強の鎧』へと変換されるのと、瓦礫の山に突っ込むのはほぼ同時だった。赤い独特の火花が飛び散る。そのまぶしさに、思わず三善は目を細めた。息が詰まるほどの衝撃ではあったが、鎧の効果だろう、痛みは全く感じられない。すぐに受け身をとり、三善は身体を起こした。ついでに石化が進んだパーカーは脱ぎ捨てた。その下に着ていた黒いシャツ姿となり、再び地上から蛾を仰ぎ見る。
真正面から斬りかかるのは無理があるのかもしれない。
なにか別の手段はないだろうかと考えていると、頭上から声が聞こえた。
「ヒメ、聞こえるか!」
声の主は、背に塩の翼を背負い、聖十字の剣を握りしめたケファである。どうやら空中から攻めようとしたらしいが、あの強風と鱗粉により妨害され近づくことすら叶わないといった様子だ。
三善が返事すると、ケファは指示を出すため、左手を口にかざし大声を出した。彼の翼がはためくたび、空から塩のかけらと灰が降ってくる。
「まずは鱗粉が先だ! 聖フランチェスコ学院でやってみせたアレ、できるか? 盾が欲しい!」
「やってみる!」
三善はあたりを見回し、なにかを探し始めた。――それはすぐに見つかったが、少々良心が痛む。
三善が探していたのは対価となる鉄の塊だ。この鱗粉のせいで、あらゆるものが石化してしまった。そのせいで、通常時ならばそれほど無理をせずとも手に入る三善の対価が見つからなかったのである。ようやく見つけた対価というのが、自分たちがつい数十分前まで乗っていた車である。三善が見つけた段階でスクラップ状態になっていたが、なんとか石化は免れていたというある意味奇跡の代物だった。
ここで対価として使用したとして、ケファの廃車記録が減るわけでもない。それであれば、ありがたく使わせてもらおう。三善はボンネットに手を当て、精神を集中させた。
「『
ケファ一人分の盾にするくらいであれば、この一台分で十分に足りるはずだ。
頭の先からつま先まで、ゆっくりと『釈義』特有の熱が流れてゆくのを感じる。すべてを消化し切るまでにはかなりの時間がかかる。それまではどうにかしてもらえないだろうかと、三善はちらりとケファの様子を追った。
――だが、彼の姿を捉える前に蛾の動きが目に飛び込む。こちらは三善の行動に既に気づいていたようだ。すぐに邪魔しようと身体を三善のいる方角へ向きなおし、はばたきを一層強くしようとする。
一瞬の凪を、彼が見逃すはずがない。
「邪魔すんじゃねえよ」
ケファが小さく祝詞を上げると、雷にも似た光の矢を数本放つ。蛾の眼前に到達した刹那、それらは唐突に爆発した。白のフラッシュが視界を奪い、蛾の動きがぴたりと止まった。苦悶する雄叫びが鼓膜を劈き、その痛みにケファは微かに顔をしかめる。
しかし、好機は見えた。手にした聖十字の剣を振りかぶると、己の身長ほどもある翼に切りかかった。片翼だけでも落とすことができれば、と思ったのだ。思いのほか切り落とす感触が重たい。三回に分けて力を込めると、ようやく一枚そぎ落とすことができた。
しかし、その頃にはすでに奪ったはずの視覚が戻ったらしい。
羽を一枚落としたにも拘らず、そのはばたきの強さは変わらない。むしろ強くなっている気がする。羽をもいだことで相当怒らせたらしく、より一層強まるはばたきが、とうとう巨大な竜巻を生み出した。
「しまっ……」
この勢いで鱗粉を撒かれたらひとたまりもない。自分だけではなく、このあたり一帯が廃墟と化してしまう。三善は、とケファが足元に目を落としたが、こちらはまだ『釈義』の装填が完了していない。
判断を誤ったか、と考えたその時、聞き覚えのある男の声が耳に飛び込んできた。
「『HIC EST ENIM CALIX SANGUINIS MEI,ET AETERNI TESTAMENTI』!」
彼の声と同時に、少女がゆらりと姿を現す。
少女の髪は緩いウェーブがかった亜麻色で、ふわふわの長いスカートがその風に揺れる。首から下げた銀十字が、熱を帯びたように赤銅に変色し始めた。
少女――マリアの口から発せられた鈴の音のような可愛らしい声が、その祝詞に呼応する。三善の瞳は紅蓮の炎のようだと表現したが、彼女のそれは夕焼けの色にとてもよく似ていた。じわりと滲む朱色のグラデーションが、感情という感情をそぎ落とした彼女の声と連動する。
「『
彼女が瓦礫の上を駆け上り蛾に近づくのと、蛾が竜巻をこちらに放つのはほとんど同時だったように思う。濁った茶色の鱗粉が、宙を舞うケファはおろか彼女自身にも降りかかろうとしていた。
ホセの鋭い声が飛ぶ。
「『
マリアの眼光がきらりと光る。
その掲げられた細い両腕から、激しく燃え盛る聖火が噴き出した。竜のようにうねるそれは、火の粉をまき散らしながら竜巻へとぶつけられる。数秒ののち、地を震わすほどの大爆発が起こった。
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