第二章 (7) もう少し賢く

「ただいま」


 しばらくして三善が戻ってきた。


 すっかり雨に打たれてしまい、全身びしょ濡れになっている。いつもふわふわとしている灰色の髪も、今は水分を吸って白い頬にぺたりと張りつく始末。走ってきたのか、彼は喘鳴混じりに「せっかく新しい聖職衣だったのに」と残念そうに肩を落としている。


 それを見たケファは、「おかえり」と声をかけながらタオルを渡した。


 ――本当に、予想通りに濡れて帰って来やがった。


 ただでさえ三善はあまり身体が強くないのに、どうして雨宿りという選択肢を選ばないのだろうか。おそらくそのあたりはこの自分に影響されたのだろうが。その点についてのみ、ケファは反省した。


「ちょっとは予想外なことをしてみろ」

 と訳の分からないことを言われたので、三善は頭の上にいくつかクエスチョン・マークを浮かべながら首を傾げる。


 何が? とでも言いたげな表情である。


「ヒメくん、あまり濡れてしまうと風邪をひいてしまいますよ。その辺りをもう少し賢く、ね」


 苦笑するホセに補足され、ようやく合点がいった。そういえば、雨宿りという選択肢は頭になかったような気がする。


 ごめんなさい、と三善が謝ったところで、さて、とホセは手にしていたカップをテーブルの上に置いた。


「ヒメくんも帰ってきたので、ちょっと出てきます」

「え、どこに行くの?」


 尋ねる三善に、ホセは短く頷き、一言。


「ト、イ、レ、です」


 さらりと二人の横を通りすぎ、ホセは入り口で革靴を履いた。濃紺の傘をさりげなく携え、部屋を出ていってしまった。


 ぱたん、と静かに戸が閉まる。


 あまりに華麗に出ていかれてしまったので、その姿を呆然とした様子で見つめながら、三善はぽつりと呟いた。


「トイレって、確か部屋に備え付けだよね」

「傘持って行ったけど、あのおっさんは一体どこまで行くつもりなんだ」


 謎だらけだが、あのホセという男はそういう人物だ。そういうものなのだと二人は熟知しているので、それ以上とやかく追求しようとはしなかった。


「それで、どうだった? 何か聞けたか」


 三善のために紅茶を淹れながら、ケファが尋ねた。彼は頭をがしがしと拭きながら、うん、と生返事をしている。


「大体は聞けたけど、ごめん。ひとりだけどうしても話を聞けなかった」

「ひとり?」


 三善は肯定した。


 ケファから紅茶の入った大きなマグカップを受け取ると、ふんわりとした湯気が視界を濁らせる。鼻をくすぐるいい香りは、不思議と三善の気持ちを穏やかにしてくれる。ケファが淹れてくれるお茶はいつでもそうだ。どんなにもやもやとした気持ちを抱えていても、これを出されるとほっとしてしまう。まるで魔法みたいだ、と思いながら一口飲むと、心地良い温かさが胃に流れ込んでゆく。


「あのね、土岐野雨さんっていう……」

「そうか、やっぱり」

「やっぱり?」


 きょとんとしたまま三善がケファを見上げると、彼は先程まで操作していたパソコンを再び操作し、三善にディスプレイを見せてやった。


「事件に関わった人物をまとめてみた。この学院で起こった放火は今朝も含めて五回。うち、後半三回の現場すべてに居合わせているのが、土岐野雨。しかも、彼女だけ被害ゼロ」


 なるほど、と三善は呟き、再び画面に目を落とした。電子画面には、おそらく学生証のものだと思われる顔写真が掲げられている。日本人らしい、大きく丸い黒目に肩までのストレート・ヘア。こちらに向けられた真摯な眼差しからは、放火に関わっているとはとても想像がつかない。


 そんなに悪い人だとは思えないんだけどなぁ。三善はそう考えたが、すぐにそれを訂正する。以前似たようなことをケファに言ったとき、「人は顔じゃねえぞ」と言われたことがあったからだ。


 そこでふと、先程の少女を思い出した。あの時は必死になって走っていたし、雨のせいでよく見えなかったけれど、あの庭園にいた少女は確かこんな感じではなかったか。ふむ、と突然考え出した三善に、ケファは怪訝そうな表情のままどうしたのか尋ねてきた。


「いや、さっき、こういう子を見たなぁって……」

「はっ? それ、本当か?」

「うん。多分この子だ」


 実は、寮の部屋を尋ねても彼女だけ不在だったのである。こういう事態だからこそ、今日はなるべく外に出るなと学長からお達しがあったはずなのだが。寮母も出かける姿を見ていないというので、「おかしいわねぇ」と首を傾げていた。もしもあの庭園で見た少女が土岐野雨だとしたら、寮にいなかったのも頷ける。


 そうか、とケファは短く頷き、パソコンのカーソルを動かした。


「今朝の放火の時なんだけど。校舎から走ってくる彼女をホセの野郎が見ているそうだ」

「それって……」


 ケファは何も言わなかった。その代わり、別のファイルを呼び出し、画面上に展開させる。それは、ホセが持ち出していた例の動画資料だった。それを再生し、三善が指摘した箇所で一時停止させる。


「昨日、“傲慢Superbia”と対峙したって言ったろ。もしかしたらと思ってもう一度見直したんだけど、」


 そこでケファは何かを入力した。画面に一瞬ノイズが走り、画像が徐々に塗り替えられてゆく。その度に、三善が指摘した影がはっきりとしたものになる。漆黒の闇の中微かに浮かび上がるのは、人間のものと思われる影だ。時間を追う毎に、その影の輪郭ははっきりと浮かび上がってゆく。

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