第二章 (8) 一緒に考えよう
「ところで、ヒメ。“
「え? “
「うん、そうだ。その中のひとつ“
ここ、とケファが影を指す。そこに浮かび上がる影は、もう当初のぼんやりとしたものなんかではなかった。くっきりとした輪郭を以てその人物の存在を知らしめている。それは、二人にとって見覚えのある人物のものだ。
「ここに、“
――土岐野、雨。
それは制服姿の彼女が、苦しげな表情を浮かべながら炎を放つ瞬間だった。瞳には涙を浮かべ、声を上げ泣き叫びたいのを懸命に堪えているその姿は、こちらから見ていてもひどいものだった。唇を噛みしめながらかざした彼女の手から噴き出す、黄みがかった炎。涙が頬を伝うたび、その勢いは増してゆく。
三善は沈痛な面持ちで俯き、無意識に手にしていたメモ用紙を握りつぶしていた。ぐしゃり、と音を立てるまで、自分が拳を握っているとは気がつかなかったほどだ。
「……三善。それで、お前の聞き込みはどうだった?」
ケファが優しい声色で尋ねると、三善はのろのろと首を横に振った。
「もう……それで、いいじゃない……?」
この聞き込みの内容は、彼女が行ってきた過ちの数々だ。あの映像を見れば、それら全てが彼女にとって辛く哀しいものだったと嫌でも思い知らされる。何度も蒸し返されるよりは、ここで終わりにした方がいいのではないかと三善は思ったのだ。
だが、ケファはそれを否定した。
「お前は優しいなぁ」
三善が何故拒んだのかをすぐに察し、ぽん、と半乾きの頭に手を置いた。
大きな手に、三善ははっと紅玉の瞳を見開いた。
「もしかしたら、あの嬢ちゃん、誰かに気付いてほしかったのかもしれないな。やりたくないことを無理にやらされて、でも、そのことを誰にも相談できなくてさ。辛かったろうなぁ。三善、お前は今気付いただろ。だから今、誰よりも親身になってあの嬢ちゃんを助けてあげられる。でも、助けるには理由が分からなきゃいけない。あの子が今どうして欲しいのか、一緒に考えよう」
聞き込みの資料はそのために使うんだ、とケファは優しく笑った。決して彼女を責めるために使うのではないと、三善にはっきりと明言した。
それを聞き、三善は赤い瞳をじっと紫の瞳に重ね合わせ、…のろのろと頷いた。そして、もうすっかりぐしゃぐしゃになった紙きれを丁寧に広げ始める。
「ええと、」
たどたどしい口調で三善は要点をケファに伝えた。ケファはそれをひとつひとつ、確認しながら聞いている。そして三善が「以上です」と言い放ったのを聞くと、彼はいつもの口調で言うのだ。
「満点ごーかく。よく頑張ったな」
さて、とケファは立ち上がり、窓の外を確認した。
雨はいよいよ本降りとなり、大粒の滴がコンクリートの地面を叩きつけている。大きな水溜まりに弾かれる雨粒は波紋を描き、映し出す曇天に緩やかな波を作る。
「こりゃあ危険かもしれないな」
ぽつりとケファが呟く。
「え?」
「ヒメちゃんが教えてくれただろ。必ず水のある場所で発火する、雨水で発火した例もあるってさ。この雨の中、傘もささずに外に出歩いていたら……」
三善はさっと血の気が引く感覚を覚えた。そうだ、先程見た少女が本当にあの土岐野雨だったとしたら。
――今、発火する条件がものの見事に揃っているではないか。
三善はどうしよう、と泣きそうな顔でケファを仰ぐ。
「どうするもなにも、とりあえず見つけて保護するしかないだろ」
まだ外にいるかは分からないが、とケファは付け加えた。「ヒメ、外に出られそう?」
「うん、大丈夫」
「そ、か。じゃあ行くか」
先にケファが窓辺から離れ、外に出る準備を始めた。三善はそれを横目で見つめた後、再び窓の外に目線を移した。そして、ふっと息をつく。
実のところ、三善は雨が苦手だった。否、雨というよりは、この曇天そのものが嫌なのだろうか。暗い色をした雲が重く広がる様は、『あの時』の湿った天井を彷彿させるのだ。
自分が二年前、ケファ・ストルメントという教師に出会うまで過ごした、あの暗く冷たい空間を。
正確に言えば、三善は当時のことをはっきりと覚えてはいない。彼が覚えているのは、暗い場所に感覚が麻痺するくらい長いこと閉じ込められていたことくらいだ。だからこそ、ターニングポイントとなったあの日を思い出すと胸が締め付けられる思いがする。
三善は右手の中指で首から下げている銀十字をなぞった。
細かい彫刻が指先に感触として伝わってくる。この十字架は、洗礼を受けた際にケファから譲り受けたものである。本来は新しいものを取り寄せるべきところなのだが、三善はわがままを言ってこれを譲り受けたのである。
指先に伝わる彫刻のくぼみ、それから、それとは別の深い傷。これは自分の師が背負ってきた断罪と信仰の証なのである。この傷に彼の生きざまが見えるようで、だから三善はこれがいいな、と考えたのだ。この傷を、彼と一緒に背負うと決めたのだ。
もしもこの場所に『釈義』が原因で苦しむ人がいるのだとしたら、自分がその苦しみを半分背負ってやりたい。それしかできないのがひどくもどかしいと感じるけれども。しかし、自分ができることは全部やりたかった。
「三善、行くぞ」
背後からケファに声をかけられた。その声に反応し、三善は振り返る。
「うん」
だから、今は彼女のために動こう。そう思ったのである。
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