第二章 (6) 土岐野雨
彼が体験した事件を要約すると、こうだ。
彼は校舎から学生寮に戻ろうとしていた。しかし、その日は午後から強い雨が降り始め、授業が終わる頃にはまるでバケツをひっくり返したかのような大雨となっていた。その勢いは収まらない――むしろ、どんどん強くなっている。
校舎から寮までのおよそ百メートルには屋根の付いた渡り廊下はないし、彼は傘も持っていなかった。走れば大して濡れずに済むだろうと考え、彼はどしゃぶりの中外に繰り出したのだそうだ。そのとき外にいた生徒は、彼の周囲だけでもおよそ十五人弱。通常に比べてはるかに少ないが、これはほとんどの生徒が雨の勢いに気圧され、教室待機を決め込んでいたからだと考えられる。
彼が外に出て走り始めると、左腕が熱い。異変に気が付きふと腕を見ると、なんと制服の袖に火が付いていたのだ。このどしゃ降りの中だというのに、火は弱るどころか徐々に勢いを増してゆく。慌てた彼は上着を脱ぎ捨てたので、火傷はそこまでひどくならなかった。しかし上着は全焼し、見るも無残な状態となってしまった。ちなみに周りにいた十五人にも同様に火が付き、これらの火も雨だというのに全く消える様子はなかったのだという。
「あの炎はなんですか。昨日の化け物となにか関係があるのですか」
そう尋ねる彼に、三善は曖昧な微笑みを返すことしかできなかった。
――こんな内容の話を、どの生徒も口を揃えて言うのである。シチュエーションこそ異なるが、水気の多いところで突然発火する点、水(水道水や、ミネラルウォーターなどが挙げられていた)や消火器では消えない点、それから時間帯が主に早朝・放課後から深夜に集中している点は共通項目として取り扱っても差支えないだろう。
ふと、先程のケファの言葉を思い出した。
「“聖火”を唯一消せるのは、“聖水”という同じ属性を持つ水だけ……」
何かが引っかかる。
三善はうんうん悩みながら、ケファ達が本拠地としている大鷲寮の一室に戻り始めた。
朝はあんなに晴れていたのに、今はどんよりと湿った雲が立ち込めている。これはひと雨降るな、と三善が思っていると、すぐに彼の頬に雨水が落ちてきた。
「うわ、」
せっかくのメモが濡れて台無しになってしまう!
聖職衣の腹部にメモ帳をしまいこみ、三善は大鷲寮めがけて一気に走り出した。雨は徐々に勢いを増し、灰色の癖毛を湿らせてゆく。このままでは、せっかくの新品の聖職衣が台無しになってしまう。
走りながらも考えて、三善は通常用いらなければならない外周コースではなく、庭園を突き抜けていくことにした。本来この庭園はそういう目的で通ることは禁止されているようだが、仕方ない。事実上この庭園を通れば数分程度のショートカットが可能だし、一応自分は部外者だ。そういう少々頂けない理由を用意して、三善は方向転換した。
「……あれ?」
庭園を走りぬけてゆく刹那、とある木陰に、彼は人影を見た。
赤い瞳が捉えたのは、この学校の制服を身に纏った女子生徒だ。肩までの黒髪に、三善ほどではないが白い頬。彼女は大木に身を委ね、ぼうっと遠くを見つめている。三善の姿には気が付いていないようだ。
雨宿り、かなぁ。
三善はそんなことを考えながら、庭園を走り抜けた。目の前はもう、大鷲寮の正面玄関である。
***
雨の音を耳にしながら、ケファは黙々とキーボードを叩く。三善はまだ帰ってこない。もしかしたら、この雨だからどこかで雨宿りしているのかもしれない。風邪を引かれても困るので、できればそうしてもらいたいところだ。なんとなく濡れて帰ってくるような気はしていたが。
そんな彼の背後でまったりとくつろいでいるのは、すっかり休憩モードに突入したホセである。
「ところで、今日は礼拝を行わないのですか? ケファ」
ただ休憩するのも暇なので、自分ができることを考えたようだ。そんな問いをケファの背中に投げかけると、意外にも丁寧な返事が聞こえてきた。もっとこう、「こっちは暇じゃねぇんだよ」などと汚い言葉が返ってくることを想像していたので、思わず拍子抜けしてしまうホセである。
「今日は中止なんだと。思いの外生徒が混乱していて、疑心暗鬼に陥っているらしい。まぁ、昨日の今日でこんなことがあれば賢明だろうな。明日からはいつも通りやる予定ではいるけれど、このまま進展がなければ見合わせだろうな」
「なるほど」
ケファは一度手を止め、椅子の背もたれを利用して背筋を大きく伸ばした。ぼきりと気味の悪い音がした。それが首の骨が鳴る音だと分かると、ホセはにこにこと笑い――否、正確には嘲笑だろう――、言ってやった。
「歳ですね。自称二十五歳のケファさん」
「残念ながらあんたより十歳は若いぞ、ブラザー・ホセ」
「おじさんの世界へようこそ。お待ちしておりました」
「人の話は聞けよ、おっさん」
これだからアンタは……と嘆息を洩らすケファに、ホセも実にわざとらしい溜息を返す。その長ったらしさといったらない。
「全くあなたときたら、ああ言えばこう言う。一応付き合いだけは長いんですから、仲良くしておきましょうよ」
「絶対嫌だ。俺はお前が嫌いなの! 何度言えば分かるんだ、この化け狸!」
「狸とはまたまた。それじゃああなたは狐ですねぇ。その化けの皮、いつ剥がしてやりましょうか」
「てめッ……」
明らかに不機嫌オーラを垂れ流すケファをよそに、ホセは涼しい顔をしている。口喧嘩だけなら、ホセは彼に負けたことがないのだ。伊達に長いこと生きていませんよ、と呟き、それから部屋の隅のコーヒー・サーバに手をかけた。中のコーヒーは温み、湯気も微かに見える程度となっている。
ホセは二つのカップにそれを注ぎ、そのうちひとつをケファの横に置いた。
「あなたは確か、ブラック派でしたね」
「うん、まあ……よく覚えているな」
教えたことがあっただろうか。不思議そうに首を傾げたケファに、何を言っているんだと言わんばかりのホセが肩を竦めた。これも、少々演技がかっている。
「研究室時代、よく私に淹れさせていたでしょう。私の方が先輩なのに。全く、あなたときたら態度だけでかくて」
「……訂正させろ。俺はお前の論文の代筆をさせられていただけなんだが」
「そうでしたか? ……おや」
ホセはふと、ケファが開いていた顔写真ファイルの中から一枚、見覚えのある顔を発見した。
今朝、坂を登った先ですれ違った制服姿の少女である。名前を
「この子、さっき見ましたよ。かわいい子ですよね、日本人らしくて」
にこやかにコメントすると、唐突にケファの手が止まった。目線はディスプレイに向けられたままだが、明らかにホセの言葉に集中している。おや、とホセは思う。自分はなにか変なことを言っただろうか。ただ、(自分でもおっさんだと思いながら)可愛いと。そう言っただけなのだが、どこに責められる要因が?
微妙な沈黙を破るかのように、ケファが口を開く。
「……今、なんと?」
「かわいい子ですよね」
「その前だ」
「この子、さっき見ましたよ」
ケファはそれを耳にするなりものすごい形相でホセを睨みつけた。まるで般若の面のような、恐ろしい表情である。そして怒気を孕んだ強い言葉を力任せに投げつけた。
「何故それを早く言わない!」
いいか、とディスプレイを指先で叩く。「今朝、ボヤ騒ぎがあっただろ」
それは知っている。首を縦に動かしたホセに、ケファは言い放った。
「今日は高等部の全学年が休講になっているんだ。そもそも校舎に入ることすら禁じられている。それなのに、どうして彼女がボヤのあった時間にそんな場所にいるんだ?」
「……ああ、なるほど」
ようやく納得したホセは、のんびりと彼に返答した。「つまり、彼女が一番怪しいってことですね」
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