第二章 (5) 交錯
少女は学園の外れにある庭園へと足を運んでいた。
先程まで天気が良かったのだが、今はどんよりとした厚い雲が青空を覆い隠してしまった。湿っぽい空気が流れ込んでくるので、もしかしたら、雨が降り出すところなのかもしれない。
濡れてしまう前に、寮に帰らなくては。
そう考えながら、彼女は石畳の道を歩く。
今朝、講義棟の近くにいたあの神父は誰だろう。黒い外套を身に纏っていたせいでその正体はよく分からなかったが、例のツートーン・カラーの聖職者でないことは確かだ。昨日やってきた二人の聖職者の応援だろうか?
もしもそうだとしたら、とても厄介なことになった。
思わずため息をつくと、
「あーめちゃん」
突然頭上から声が聞こえてきた。見上げると、庭園に植えられている桜の木――今は青々とした葉に覆われている――の影に、微かに人影が見える。その人影に、少女ははっと身を固くする。
「御苦労さま。君も、ようやく慣れてきたんじゃない?」
男性の声だ。流れるように美しいテノール・ヴォイスは、こんなに不自然な内容でなければ、いくらでも聞いていたいと思う程だ。歌わせればもっと映えるだろうに、少なくとも少女の前で『彼』はそのような仕草を見せたことはただの一度もなかった。
そもそも、基本的に『彼』は少女の前に姿を現さない。初めて会った時に一度だけ姿を見せたが、それ以降はこんな感じで、声のみを伝えてくる。そんな人を信用しろと言われる方に無理があるけれど、少女はそれでも彼に付いて行くことを選んだ。その他に選択肢がなかったからだ。
「私……、」
少女は何とか声を絞り出した。「どうしよう」
「何を?」
「だって、昨日からあなたの言う聖職者が何人もやってきているもの。今日だって、そういう格好の人がやってきているし……」
怖い、と少女は切に訴えた。だが、木陰に隠れたまま一向に姿を現さない『彼』は、「大丈夫」と、優しい声をかける。
「しかし、厄介な奴が来たのは確かかなぁ。昨日、腕を一本持っていかれてさ。俺も困っているところだ」
「腕……?」
「そう、腕。スパッと一本」
それってかなりマズイんじゃなかろうか。
聖職者が人を傷つけていいはずなんかない。もし『彼』の言うことが本当だとしたら、あの聖職者たちは――
贋者?
少女の頭にそんな言葉がよぎった。そうか、贋者ならば血なまぐさいことも平気でやってのけるだろうし、うまくいけば今までの“事件”も全てなすりつけることができるかもしれない。そうすれば、自分が疑われることはなくなる。もう、こんなに怖い思いをしなくてもいいのだ。
だが。少女の思考はそこでぴたりと静止した。
黙り込んだまま固まっている少女に、『彼』はやんわりと声をかける。
「雨ちゃんが怖いって言うなら、俺がやっつけてあげるよ」
少女は顔を上げた。
「そんなこと、できるの?」
「ああ、できるとも。大事な雨ちゃんを泣かせる奴は許せないねぇ」
それに、と『彼』は付け加えた。「片腕の代償は、しっかり払ってもらわなくちゃ」
その声色はぞっとするほど冷たい。少女ですら薄気味悪さを覚えるほどに、『彼』が本来持ち合わせている残忍さをより一層際立たせる。
そんなことを願ってはいけないと頭では理解していた。胸の中に溜まってゆく黒い靄の正体はそれだ。自分勝手に、そんなことまで決めてしまってはいけないのだと。『彼』がやると言ったらやるに決まっている。一番はじめの放火の時も、二回目の時も。怖気づくのではないかとたかを括っていたら、彼は本当にそれをやってしまった。そしてこうも言う。
三回目以降は、君の番。
「……っ」
やっぱり、やめてもらおう!
少女が顔を上げると、そこには既に『彼』の姿はなかった。先程まで痛いほどに感じていた気配は霧散し、ただ湿っぽい風が庭園を吹き抜けていくばかりだった。
ぽつり、と雨粒が一滴、少女の頬を濡らした。
***
ようやくひとしきりの聞き込みを終え、三善は長く息を吐き出しながら寮を後にした。疲れた、と肩をがっくりと下げながら、詳細を記録したメモに目を通す。
それにしても、生徒たちはよく話してくれたものだ。結構な情報量に三善は呆気に取られつつ、先程までの状況を回想する。
被害に遭ったという生徒たちは突然やってきた三善を見るなり、露骨に嫌そうな顔をした。無理もない。昨日の件にしても、今朝の件にしても、不慮の事態とはいえ対処が遅れたことには変わりない。それに対し不満が募るのも至極当然のことだ。プロフェットである以上こういう局面には慣れている三善だが、やはり何度経験しても辛いものは辛い。どう対応しても、結局のところは言い訳でしかないのが分かっているからだ。
それでも、引き下がる訳にはいかない。ここで手を打たなければ、また『次』があるかもしれないのだ。
そんな思いを胸に三善が必死で頼み込むと、彼の真剣さが伝わったのか、生徒たちは唸りつつもようやく口を開いてくれた。
「……あの日の話をするのは、本当は嫌なんだ。もう思い出したくもないのに、俺たちは警察には何度となく説明しなくちゃいけない。その度に思い出さなきゃいけない……この苦痛が、分かりますか。神父さん」
とある男子学生はそう言った。左腕全体を覆うように、真っ白な包帯が巻きつけられている。その痛々しい腕を見ただけで、三善の心は酷く軋んだ。しかし、目を背けてはいけない。ぐ、と拳を握り、三善は口を開く。
「心中……お察し申し上げます。あなたにとって嫌な記憶を再び思い出させてしまうのは、非常に心苦しい。しかし、あなたのような被害者を再び出さないためにも、是非お話を聞かせてほしいのです。もちろん、主と聖霊に誓って、あなたの秘密は守ります」
必死に懇願する様子に、男子生徒は短く息をついた。仕方ないなと呟きながら。
「分かった。話すから――、約束してくれますか、神父さん」
三善がぱっと顔を上げた。その嬉しそうな表情といったらない。この男子生徒は三善のそんなストレートな感情表現を面白く感じたらしい。唇には微笑みが浮かんでいる。
「あなたは高名なプロフェットだとお聞きしました。昨日もその力で“七つの大罪”と戦ったとか。あっ、友達から聞いたんだけど……。次に何かあった時も、俺たちを守ってくれますか」
三善は微笑んで、約束します、とはっきりと言った。
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