第一章 (10) Superbia

 さすがのケファも目を剥いた。


「な……」


 消えた影を追う間すらなかった。すぐに新しい衝撃が腹部に襲う。二発目の衝撃は手にしている剣で受け身をとり、無理やり薙ぎ払った。鋭く空を切る音がして、僅かだが刃先に手ごたえを感じる。


 チィン、と独特の赤い火花が走った。それを視界の端の方で捉えて、ケファは思わず目を瞠った。あの火花――見覚えのある反応だ。間違いなく、あれは。


 気づいてしまったからには、もう遅い。明らかに動揺してしまっている自分がいる。


 再び態勢を整え、剣を再び振りかぶった。今度は容赦なく、『殺す』ための動きへと変わっていた。影に触れると同時に感じた肉を斬る重たい感触。先程よりも派手に赤のプラズマが飛び散り、夜闇の中に華を咲かせていた。その光が、一瞬だけ影の本性を露にする。


「――っ」


 ケファの目は、『影』の紅い瞳を捉えた。ほんの僅かに見えただけなのに、まるで吸い込まれてしまいそうなほどに強い印象を植え付けられたその瞳。それがさらに、ケファの思考を確信へと導いてゆく。


 しかし。

 本当にこの影が『それ』だとすると――


 心の中でもう一人の自分が悲鳴を上げている。警鐘のようにうるさく、しきりに逃げることを推奨する本能。だが、ここで引き下がる訳にはいかない。分かっているのに、身体が意に反して躊躇している。


 ひとつの結論に達したケファは、既に理解していた。

 今この場所で、『それ』に勝つのは不可能である、と。


 少しでもそう思ってしまった自分が憎らしかった。その思考を断ち切るべく、ケファは力任せに剣を振るった。しかしそれは虚空を切るだけで、先程までの手ごたえは全くと言っていいほど感じられなかった。まして、『影』が放つ気配すらも完全に消え失せているではないか。


 紫の瞳は自然と影を追い求める。


「いない、だと……?」


 ケファはゆっくりと辺りを見回した。しかし宙はおろか、地上にさえそれらしい人影はなかった。あれほど独特だと感じていた気配の残滓すらも消え失せてしまっている。


 涼しい乾いた夜の風が彼の頬を撫ぜてゆく。体の熱が徐々に冷えてゆき、冷静さを失いかけた思考も徐々に元の状態へと戻ってゆく。


 そして訪れた夜の静けさ。しんとした空。先程から痛々しいほどに感じていた空気のざわめきすら聞こえない。恐ろしいほどに、『全て』が元通りになっていた。

『影』を逃がしてしまったことを悔いるべきか、それとも倒される前に撤退してくれたことを喜ぶべきか。どちらにせよ、彼の心に残ったのは己を呵責する思いだけだ。


「……っ、くそっ!」


***


 塩の翼の対価が切れたのでゆっくりと地上へと降り立ったケファは、悔しさのあまり頭をぐしゃぐしゃとかき回していた。身体に白い灰がまとわりつく。口の中にもそれらが入り込み、ざらりとした粉っぽい感触が舌に残る。彼はこの感触があまり好きではない。そんな些細な出来事が、彼の苛立ちをより一層高めているのもまた事実だ。


 脳裏によみがえる、先程の戦闘。否、戦闘と言えるほど大層なものではなかった。むしろ、「軽くあしらわれた」と感じる部分の方が大きい。


 それよりも、紅い火花を目にした瞬間に感じたあの感情は一体なんだ。焦りか? 不安か? それとも、後悔か? どれも違う。きっとあれは、恐怖、だ。なぜ、斬る判断が鈍ったのか――その理由は明白だった。


 なぜなら、あれは。あの人影の正体は。


「ケファ!」


 背後から呼ばれ、ケファははっとして振り向く。


 三善だった。外が静かになったので、講堂に張った釈義を解除してやって来たようだった。その息切れしている様子から見ると、走ってきたか、体力を予想以上に消耗してきたか――。


 いずれにせよ、彼を早く休ませなければなるまい。彼の身体の“仕組み”は、通常の人間のそれとは大分異なっているのだ。


 三善でなくとも、一日にあれだけ釈義を展開すれば完全なオーバー・ワークだろう。こんなことを考えているケファ自身、身体のダメージは相当である。正直、今こうやって立っていられることの方が不思議でならない。


 満身創痍、という表現が浮かんだケファだったが、すぐにそれを打ち消した。


 三善に弱い部分は決して見せられないのである。それは師としての自分のあるべき姿だと考えていたし、彼に出会う前の自分もそうだったのだから、今さら変えることなどできない。


 ただ自分は、模範を見せるだけ。それが勤めなのだ。


 いずれ彼も自分の元を離れてゆくのだから。ヴァチカン支部で教鞭を執っていた頃、何人もの生徒が巣立っていったように。


 三善はそう考えるケファをよそに、喘鳴混じりの声で話し始めた。


「こっちはどうにか、大丈夫だった。負傷者もそんなに出ていない。そっちは?」

「……最悪だよ」


 ケファは釈義完了の祝詞を唱え、手にしていた剣を小さなイヤー・カフに戻す。それを左耳の軟骨部にはめると、小さく息を吐き出した。


 その赤銅の瞳が、全てを物語っている。あの『影』が、この男の闘志に火を点けた。嫌でも分かるくらい、彼は今殺気立っていたのだ。


 いつになく不機嫌なケファを目のあたりにし、怯える三善。そんな彼の耳元で、ケファはそっと囁いた。その苛立ちからは想像もつかないくらいの、優しい声色で。はっきりと。



「どうやら、この学校に“傲慢Superbia”の第一階層がうろついているらしい」

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