第一章 (9) 独特の残滓

 ケファが窓から飛び立ったのを肉眼で確認すると、三善は次の対価の装填のために、右手で銀食器をかき集め始めた。……まあ、銀食器もひと山あれば対価としては充分である。むしろ多すぎるくらいだ。


 至極冷静。三善の現状況を一言で表すならば、間違いなくこうだろう。


「姫良神父! あれはいったい……!」


 逆に、四辻を始めとする、その場にいた生徒・教師までもが突然の出来事に混乱していた。ガラス片による負傷者が出たことも彼らの不安を一層高めている。ただでさえ例の発火事件で精神が不安定になっているところに、まるで傷口に塩を塗るかのような事態。


 混乱が混乱を呼んでいる――それは、非常にまずい。


 うーん、と三善は数秒考えたのち、うろたえる四辻を見上げ、はっきりとした口調で言い放った。


「あなたには、まだやるべき仕事がありますよ。どうか彼らを落ち着かせて下さい。そうでなければ、二次災害が起こるかも分からない。お願いします、わたくしの盾があるから、大人しくしていればこれ以上の怪我人は出ません。神と聖霊に誓って、保障致します」


 四辻は目を瞠った。

 この場にいる誰よりも若いはずの彼が、何故かこのとき一番頼りにできると直感したからである。その真摯な瞳が、四辻の頭を瞬時に冷やした。


 その小さな背中に背負う『祈り』の力――今我々が縋りたいのは、まさしくこれなのだろう。


 三善が再び口を開く。その口調はまるで、確信を得ているかのような強いものだった。


「『釈義』がある限り、我らエクレシアは負けない」


 絶対に、と彼は言う。


 その自信とは裏腹に、不安に負け泣き始める生徒も続出し始める。四辻が躊躇う間に、こんなにも恐怖と不安は伝染するのだ。三善の紅蓮の瞳は、揺るぎなく四辻を見つめ続ける。ここはあなたの学校なのだ、と諭されているかのようにも見えた。


「さあ、早く!」


 三善の声に四辻はひとつ頷き、ようやく行動に出た。


***


 夜色の空を引き裂くように、白き塩の翼を背負うケファが翔ける。講堂の窓を割られる前、確かに感じた“七つの大罪”の気配。それだけを頼りに、彼は目標物を宙から探す。


 暗闇は慣れているとはいえ、捜索するにはあまりに不便だ。いっそのこと明かりでも、とケファは考えたが、その明りはすなわち敵に自分の居場所をみすみす教えることと同義だ。だからその案はすぐに却下し、月明かりだけを頼りに捜索することとなったのである。


 ばさり、と羽ばたき、旋回。講堂上空からは、独特の残滓は残っていたものの、直接“七つの大罪”の居場所を特定できるほどではなかった。今はここにいない。もう逃げたか、と一度動きを止めると、遠くの方で何か黒い影が揺らいで見えた。


 目を凝らしてよくよく見てみると、その影は重力に反して、宙にぴたりと静止した状態で佇んでいるようだ。場所は校庭の上あたり、昨夜燃えた納屋のすぐそばである。……何者かは分からないが、宙に静止できるとなると普通の人間ではないことは確かだ。


 ――否、人外でも、宙にその身を置くことができるのはごく限られている。


 いよいよ“七つの大罪”が動き出したか。ケファはその薄気味悪さに小さく舌打ちし、胸元で十字を切った。これはもはや彼の習慣のようなもので、釈義を誰かに向けて発動する際には決まってこのようにしている。そして祈りを捧げる。


 己と、後に天の眷属となるであろう何かに、神の御加護があるように、と。


 翼が再び彼を夜闇へと誘う。同時に彼は対価を得るため、自らの親指を噛み切った。甘やかな痛みと、微かな鉄の臭い。舐めとると、口の中にはフワリと独特の味が広がってゆく。


「『装填eisegesis開始』」


 ケファが左耳のイヤー・カフを取った。そしてその十字架の飾りをつまみ上げ、まるで刃物を振るかのように高らかにかざした。


「『深層significance発動』!」


 彼の声に呼応し、イヤー・カフが聖気を帯びた閃光を放つ。次の瞬間には大人ひとり程度の大きさの巨大十字――否、大剣へと形を変えていた。それを大きく振りかぶり、ケファは目の前に見えている謎の人影に容赦なく斬りかかった。


 ざ、と空を切る音が耳を劈く。しかし、その両手に手ごたえは微塵も感じられない。

 次の判断が頭を過る。だが、追いつかなかった。


 鈍痛。


「っくは……ッ!」


 脳天を何かに強打され、ケファの視界がぐらりと揺らいだ。吐き気とめまいが同時に襲いかかり、力の抜けた体はそのまま地面へと墜落するかと思われた。しかし彼は稀に見るほどの強靭な精神力の持ち主。すぐに大翼をはためかせ、塩のかけらと共に上空へと舞い戻る。


 次第に鮮明になってゆく視界。彼の眼下には、例の影がはっきりと見えた。大きさからして、標準と比べるとやや背が高い男の影と思われる。だが、ようやく捉えたその影はケファの目の前で忽然と消えてしまった。

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