第一章 (8) 晩餐

 三善が聖典の一部を読み上げる。


 揺らめく蝋燭の炎がほんのりと赤く各々の頬と瞳を照らす。鮮やかな光彩を放つであろうステンド・グラスは、今はその蝋燭の光を反射しているだけであったが、それでも充分に美しいと感じられた。神秘的な光に包まれて、今ここに信仰が宿る。


 静かに、ぱたん、と本が閉じられる。のちに室内の明かりが点き、蝋燭の火はばらばらに消されてゆく。……溶けた蝋から立ち上る白い煙が、ゆったりと立ち昇っていった。


 三善は静かに一礼し、その場に着席する。そして、手にしていた本――聖典を膝の上に置き、黒の革張りの表紙を優しく撫でた。


 一応挨拶代わりに、ということで一節読んだ訳だが、三善は若干緊張していたようで、仕草にそれが表れていた。心を落ちつけるためだろうか、机に隠されて見えないところでこっそりと表紙の金文字を人差し指でなぞっていた。


 その横で、ケファが補足するために簡単な説教をしていたが、三善の耳には全く入っていなかった。あとで怒られるとは思うが、どうも頭の中がぼんやりしている。お腹が空いているからだろうか、三善はそんなことを考えた。


「――それでは、これ以上話していてはせっかくの料理が台無しになりますので、ここまでとしましょう」


 そのように締めて、ケファも着席する。数秒後、足先で何やら突かれたので、やはり彼には話を聞いていなかったことがすっかりばれていたようだ。


 神への賛美を込めて、穏やかに、そして厳かに祈りを捧げる句を述べる。静かなる黙祷。そしてようやく、晩餐が始まるのだった。


 男子・女子寮を繋ぐように建てられたこの場所は、全ての生徒が食事できるように設計されているため、非常にひろびろとした内装となっている。四辻曰く、自分たちから見て右から一年、二年、三年と席順が決まっており、特段の事情がなければこの場所で食事するのが基本だという。


 三善はフォークを取り、野菜を少しずつ口に運んでいた。彼ら聖職者は四足の動物は食べてはならない。したがって、本日は生徒たちとは別メニューの半ば精進料理のようなものを食べていた。まあ彼に至っては、普段からたくさん食べない主義なので同じ年頃の子供に比べたら質素なもので充分過ぎるくらいなのだけれども。


 少し食べたところで、三善は早くも満足してきたらしい。何せ、品数が多い。気持ちの方が一気に飽和状態に達してしまい、「これ、こんなに食べられるかなぁ……」といった心境に陥っていたのだった。


「……ブラザー・ミヨシ」


 こそ、とケファが口を開いた。まるで囁くような口調で、他の人には聞こえないよう充分配慮した声色である。


 三善が横目でケファを見る。彼は表情を変えずに、ひたすら野菜を咀嚼していた。


 なに? と同じトーンで聞き返すと、ケファはつい、と顎を動かした。窓を指している。ふと三善がそちらに向けると、紅い瞳の先には夜色の空が広がっていた。それ以外に、なにも変わった様子はない。せいぜい、明かりが少ないため都会と違って星が良く見えるというくらいか。


 ケファが言わんとすることを理解できなかったので、三善は一旦フォークを置き、改めて窓へと目線を送った。……やはり、これといったことは思い当たらない。


 だが、その時ようやく三善はなにかを感じ取った。


 臭い、とでも言うべきだろうか。まるでなにかが背筋を這っていくかのような、とてつもなく気持ち悪い気配を感じる。その気配には心当たりがあった。今日も一度対峙している、大聖教とは決して相容れない存在の。


「――“七つの大罪”?」


 唐突にケファがフォークを置いた。


 それに気がついて、三善は再び目線をケファへと移す。彼の表情は、それまで浮かべていた慈愛に満ち溢れた穏やかな表情などではなかった。代わりに、鋭いナイフの切っ先のような、冷たい瞳で窓の外をじっと見つめていた。相変わらず、外は暗闇に包囲されている。仄暗く光るのは、あちこちに点在している街灯か。


「四辻学長」


 ケファは、おもむろに右隣りに座っていた四辻に話しかけた。この時にはすでに穏やかな表情に戻り、何事もなかったかのような表情を見せている。


「はい、どうなさいました?」

「今、この場所にはどれくらいの生徒さんがいらっしゃるのでしょう?」


 突拍子もない質問に四辻は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに元に戻り、落ち着いた口調で返答する。


「ええと、高等部全学年の、およそ六〇〇名です。体調不良を理由に欠席している生徒もおりますが――」


「なるほど。分かりました」


 それでは、とケファが立ち上がった。三善もそれを合図に立ち上がると、小さく己の祝詞を上げた。


 ――釈義exegesis展開。


 ほんのりと巡る独特の熱が、次第に昂ってゆくのが分かる。三善はその赤の瞳を窓の外へと向け、左手の手袋をおもむろに外していった。


「ちょっと食事の邪魔が……入りそうですね」


 刹那、講堂の窓ガラスが一斉に吹き飛んだ。


 生徒の悲鳴が耳を劈く。ばらばらと破片が雨のように降り注ぎ、同時に磨き上げられた白い床が赤い染みによってみるみるうちに侵食されてゆく。


「『深層significance発動』!」


 三善が哮る。かざした左手から白い閃光がほとばしり、講堂を覆い尽くした。会場全体を覆う銀色の薄い膜が突如として現れ、降り注ぐガラス片から彼らの身を守っている。


「ヒメ、」

 ケファが岩塩を口に放り込みながら肩を叩く。「その“壁”、五分……いや、三分でいいから継続してくれないか。念のため」


「対価はお互い山のようにある。三分と言わず、十分くらいでどう?」

「助かる」


 がり、と噛んだ岩塩の塊。強い塩分に顔をしかめながら、ケファは割れた窓からその身を投じる。宙に投げ出された体は、重力に従って落下を始めた。


「『深層significance発動』!」


 その時、ケファの背には真っ白な翼が構築された。塩の破片が風に舞い、そして灰になって宙へと消えた。彼の身体は途端に鳥のように軽やかに夜空を漂い始める。


 藍色の空の中に、“あれ”はいるはずなのだ。そしてそれが、今回の発火事件の鍵を握っているのかもしれない。否、それよりも、もっと重要なことがある。


 せめて一般の子供を巻き込まないでほしかった。それだけ、だ。


「“七つの大罪DeadlySins”……!」

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