第一章 (1) ふたりの聖職者

 その少女はひどく取り乱していた。


 見上げた夜空に立ち昇るは、紅蓮の炎だ。蝶の鱗粉にも似た鮮やかな火の粉が漆黒の闇にきらりと瞬いて、黒煙と混じり合って消えて行った。消防サイレンの音が徐々に近づいてくる。もうじき、この炎を消すためにやってくる。そう、ここに。


 ――大丈夫。


 少女は大きな闇色の瞳を恐怖に震わせながらも、しっかりと己に言い聞かせるように首を縦に動かしていた。


 もうじき騒ぎに気付いた教員や生徒が避難を開始し始める。その騒ぎに乗じてうまく戻れば、自分が怪しまれることなどない。でも、と少女は思う。


「本当に……」


 本当に、『あのひと』は、わたしの願いを聞き入れてくれるのだろうか?

 そもそも、こんなことをしてまで、叶えたい願いなのだろうか?


 少女はくるりと踵を返した。そうだ、今この場所で考えるよりは、ひとりになれる場所で落ち着いて考えた方がいい。だから今は、そんなことは一切考えず一刻も早く寮へと戻るべきだ。


 踵を返した刹那、きれいに弧を描く黒髪。炎の明かりに照らされて、その色はより一層深みを増してゆく。彼女はもう振り返らなかった。今も尚燃え続ける納屋も、煙に燻されて痛む喉も、迷う思考すらも、全部彼女にとっては「なかったこと」にされた。


 ――大丈夫。


 走る彼女は、喘ぎながら再びそう考えた。


 ――この火事は、決して、私のせいなんかじゃない。



 その夜、本州第三区・東十六夜ひがしいざよい市に建つ聖フランチェスコ学院の納屋が、ものの見事に全焼した。


***


 本州第三区・東十六夜市は有名な学園都市である。


 この場所は何百年も前から大聖教の庇護を受け、数多の優秀な学者を輩出してきた。学問に関することならば大抵のものは存在するし、大規模なリゾート開発もなく、景観を乱すものすらない閑静極まりない環境が若人の勉学にはうってつけなのだった。


 さて、そんな閑静な通りを一台の車が走っていた。一応法定速度ではあるけれど、荒さがこれでもかというほど目立つ。別に初心者マークが付いている訳ではないのだが、どうもその動きにはどこか危なっかしい印象を受ける。


 黒色の車のボンネットにさりげなくつけられた、淡い金の光を放つ十字架が太陽の光に反射してきらめいた。その十字架は大聖教のシンボル・マークであり、この車を運転する者がその関係者であることは一目瞭然だった。


「――天気だけはやたらいいなぁ」

 大あくびをかましながら、金髪の青年はハンドルを切る。「ヒメ、目的地まではまだあるぞ。それに車の中であまり文章ばっかり読むんじゃない。酔っても知らないぞ」


 助手席では、彼に「ヒメ」と呼ばれた少年が黒い書類ケースを抱えていた。そしてその手には、やや厚みのある資料。


「だったら酔わないような運転をしてくれる?」


 少年は実にあっさりした言葉を返し、再び手元の資料に目を落とした。

 青年はその辺りについては何も言えないようで、ぐ、と言葉を詰まらせた。


 彼はそのアメジストを連想させる澄んだ紫の瞳をじっと前へ向け、左手で首から下げている紫の肩帯を直す。その身に纏った白と黒のツートーン・カラーの聖職衣は、先週新調したばかりのものだ。今回ばかりはきちんとした格好をしないと、と思った結果らしいが、彼の左耳についている十字の飾りが付いたイヤー・カフが、その雰囲気をものの見事にぶち壊しにしている。神父――肩帯の色から判断して、司祭だろう――にもかかわらず、優しげな印象は微塵も感じられない。顕著なのは、彼の表情に浮かび上がる精悍さ、そして、若干の不真面目さだ。


 対して少年の方は、優しげな印象という点では満点である。年齢は十五歳ほど。青年と同じ聖職衣を身に纏い、肩には黄色の帯を下げる。ほとんど差異のない恰好をしているが、どちらがそれらしいかと問われれば間違いなくこちらだろう。


 ただ、こちらもいくつか一風変わった特徴を持ちあわせていた。


 まず、肩帯と共に下げている銀十字だ。本来は細かい彫金が施された非常に美しいものであるはずなのだが、彼の銀十字は無惨としか表現しようのないほどに傷だらけだった。これは祭器であるため、普通ならばこんなに傷だらけになったりしないのである。そしてもう一つは、彼の外見に関することだ。神父――彼は助祭である――にしては若すぎるということもあるが、その灰色の癖毛に隠れている瞳。これがまた一段と風変りなのである。紅玉を連想させる赤の瞳は、見る者を思わずぞっとさせる。当の本人はさほど気にしていないようだが、その珍しい光彩は受け入れられないこともしばしばである。


 少年はぺらりと資料を一枚めくり、「それにしても」と呟いた。


「ケファ・ストルメント司祭に、姫良三善ひめらみよし助祭――。指名つきの案件なんて初めてだね、ケファ」


 金髪の青年――ケファは、「ああ」と肯定の意を示す。


「別に俺たちじゃなくてもいいと思うんだが……。どこで個人情報が洩れたんだろ。今は神学者なんかじゃねぇのに。ところで、依頼はなんだっけ」


 ええと、と少年――三善が資料をめくり、初めのページへ戻る。

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