心霊備忘録 第2話「浮かぶ顔」
@sonogi
心霊備忘録 第2話「浮かぶ顔」
16年前に退職した職場で起きた話である。
当時の同僚たちとは今も仲が良く、女性ばかり10人ほどのメンバーで年一度は集まる。その職場自体は隣県の事業所に吸収合併されたから通勤しにくくなり、一人また一人と辞めて今は誰も残っていない。
実はメンバーの一人でありながら一度も参加していない者がいる。Tと言い、私とは年も近く一番仲良しだった。
Tの特徴といえば、ずばり美人だったことである。和服の似合う切れ長の眼、卵形の整った目鼻立ち。美しい黒髪。一切媚のない氷の美貌という表現が最も近いだろう。
とにかく好みを超越して誰もが美女と認めざるを得ない存在であった。電車に乗れば皆が思わず見つめてしまう。
ほとんど感情の起伏を表さない彼女には独特のオーラがあった。
近寄りがたい、実際に人を近づけない人間だったが、心を許した者には朗らかで優しく甘えん坊な面を見せるところがあり、大好きな友達だった。
過去形なのは、Tが私を含め当時の知りあいとの連絡を断ち切ってしまったからだ。
Tが人を近づけないオーラを発していたのには理由があった。
Tの母は中国地方の片田舎の生まれだったが、大都市の大学に進学。ある時、大きなお腹を抱えて戻ってきた。そして女児つまりTを出産すると、乳飲み子を両親のもとに置いて颯々と都会へ戻ってしまい子の父親とは別の男性に縁付いた。
幼少期とても淋しかったのは間違いないが、祖父母はTをとても愛し育ててくれたらしい。
そのまま片田舎で成人したほうが彼女には幸せだったのかもしれない。
Tが10代半ば頃、再婚した母が彼女を呼び寄せた。実はTの母親は水商売の世界で成功をおさめクラブのオーナーママになったのだ。
意地悪な見方をすれば、愛情から呼び寄せたというよりは鄙には稀な美女に育ったTを手許に置きたかったのが本当のところではないだろうか。
賢いTは見抜いていたようで、母の店を手伝いながらも一緒に暮らすことはなかった。
その後、長い月日を経て私とTは出会い、心を許した友となった。
彼女が自分の生いたちを話してくれたように、私も自分の家系から生じているらしき悩み事…心霊現象をTには打ち明けることができた。Tは私を気味悪がったりせず、黙って聴き、必要と思えば意見してもくれた。
職場は電話を使った公的サービスの仕事で毎日座るデスクが替わる。
私とTはいつも隣に座ったのだが、ある日Tが急用で欠勤した。空いた隣席をぼんやり見ながらTのことを考えていたその時、それはそこに浮かんでいた。
小さな顔、若くない男の顔だった。
表情は読みとれない。
私はそうした類のものを見てしまうことが時々あったので悲鳴はあげなかった。
直感的に「それ」が善いものではない、とだけ感じた私は浮かぶ顔を睨みつけたが、向こうは私に目を向けずプカプカ漂っていた。
そして長い時間、見えたり見えなくなったりを繰り返し、やがて消えた。
普通なら会社にいる地縛霊か、誰かに憑いてきた浮遊霊を疑うのだが、ピンポイントでTのことを思い浮かべた時に現れたそれに何やら嫌な感じがした。
その事を遂にTに打ち明けたのは、同じ男の顔を何度も見た後だった。
Tに、こんな人相の中年男に心当たりが無いか確かめ「無いけど…」と不安がる彼女には守護霊や御先祖かもしれないね、となだめすかしたが私には確信があった。
この男の顔はTに仇なす邪悪なものだ。そしてたぶん生霊でなく死者であるような気がした。
Tには「あんたが休んだ日、必ずあんたが座るはずだった席にいる」
そこに別の誰かが座っていても。
Tに話せなかったこと。
それはTが病欠した時は、そいつが微笑んでいるのだ。
しかもTが「風邪がなかなか治らない」と暫く欠勤すると、男の顔の微笑はハッキリと笑顔になった。
コイツめ!睨みつけても顔はやはりこちらを見ない。
ただしTが出勤すると顔は影も形も無い。
Tにネックレスになった御守を以前に渡していた。持ち歩くように促したが、金属アレルギーだというTは「大切にアクセサリーケースに入れてる」と言うので、せめてポーチにでも入れて持ち歩いてほしいと懇願したが「考えとく」と言われて話が終わってしまった。
そんなある日、出勤すると皆が心配そうな面持ちでヒソヒソ話している。
聞くと、出勤してきたTが会社の玄関口で皆の見ている前で崩れ折れたというのだ。
ぎっくり腰だと病院に運ばれたらしい。
その時だ。隣席にあいつが現れた。
背筋が凍りつくように感じた。それほどそれは満面の笑顔だった。口も開いていて、聞き取れないけれど確かに笑い声を発している。
悔しくて(絶対にこいつをやっつける!)と誓ったのだが。
間もなく私は職場を退職した。
その公的サービスの仕事はアルバイトで、もう1つ掛け持ちの仕事をしていたのだが、そちらの会社から人員確保の事情により緊急で社員になってもらいたいと要請されたのだった。
まだ復帰できていないTに心を残し、他の親しい同僚にTの事を託して私は職場を去り、まめに状況を教えてもらっていたのだが。
その後Tは彼女を前から疎んじていた女性上司に目の敵にされ続け、とうとう退職してしまった。
しかもその後、Tは病名を明らかにできないという難病にかかって長い入院生活に入ったのだ。
電話をかけて話した時、Tは「私にはもう関わらないほうがいい。私は周りの人を不幸せにするのかもしれない」
そう言った。
他の同僚たちには「もう付き合う気は無い。さようなら」
私がメールをしても無視され続けたが、最後に返事が来た時「私のことは忘れてください」と書いてあった。
メールを送ると宛先不明にはならないし、拒否はされていない。
最近になって偶然、元同僚の一人が新しい勤め先でTと出会いかけた。
…かけた、というのは対面する直前に逃げられてしまったのだという。
その時「私は過去の付き合いを全部捨てた」と伝言が残されていた。
Tの苦境にあの浮かんでいた男の顔が関係しているのかは、わからない。
わからないが、Tも、その母も魅力的すぎるがゆえに男性の人生を狂わせるような事があったのかもしれない。
Tは無欲恬淡とした人間だった。もし母親への怨みから顔の男が娘に憑いたのだとしたら、私は理由はどうあれ顔の男を憎んでしまう。
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